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連載・特集

廣島 広島 ひろしま 第4部 復興の足音 <7> 聖堂建設

「友愛と平和」願い集結

 背の高い鐘塔が目を引く、広島市中区幟町の世界平和記念聖堂。平成十八(二〇〇六)年、広島平和記念資料館とともに、戦後の建築物として初めて国の重要文化財に指定された。

 この聖堂建設を牽引(けんいん)したのは、戦前から広島で布教活動を続けていたドイツ出身の神父だった。その名はフーゴ・ラサール(一八九八―一九九〇年)。幟町カトリック教会で被爆した神父は、平和の対極を経験した広島にこそ「友愛と平和のしるし」を打ち立てたいと強く願った。

 終戦の翌年から神父はローマをはじめ欧州、北米、南米を巡って広島の惨状を証言し、世界中の人々の平和への願いを広島に集結させたいと訴えた。

 神父が日本に帰国した昭和二十二(一九四七)年、聖堂建設のための準備が始まり、三年後の八月六日、定礎式。やはり幟町教会で被爆したシッファー神父らがアメリカで建設費の募金活動を展開。ドイツやベルギーをはじめ多くの国から、鐘、パイプオルガン、祭壇など多くの品が寄贈されることになった。

 広島でも幟町教会の信徒を中心に募金活動が進められ、建設現場では聖堂に使うれんがを信徒らが手作りした。聖堂建設にかかわった人々の国籍、宗教などはさまざまだったが、その願いは一つだった。

 物資高騰による工事中断なども乗り越え、被爆から九年後の昭和二十九(一九五四)年八月六日、献堂式。ラサール神父が願った「友愛と平和のしるし」は、聖堂の形をとって広島の地に実を結んだのである。神父は後年、広島市名誉市民として顕彰された。

 鐘塔側面の聖堂記には次のように記されている。

 「此の聖堂により恒に伝へらるべきものは虚偽に有らずして真実、権力に有らずして正義、憎悪に有らずして慈悲、即ち人類に平和をもたらす神への道たるべし」(広島市文化財団文化財課学芸員・荒川美緒)

(2009年2月17日朝刊掲載)

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