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連載・特集

廣島 広島 ひろしま 第4部 復興の足音 <9> ロータリーエンジン車㊤

東洋工業 存続かけ開発

 「もはや戦後ではない」と言われた昭和三十一(一九五六)年を基点に、日本は高度経済成長を実現していった。

 昭和三十年代の中ごろから、日本でもモータリゼーションが本格的となり、特に昭和三十九(六四)年の東京オリンピック開催を契機に高速道路が整備され、これにより日本はどんどん「狭く」なっていく。そして、サラリーマンにも車に手が届く豊かな時代となり、一般家庭にも自家用車がやってきた。世に言う「マイカーブーム」の到来である。

 こうして車が鉄道とともに交通の主役となっていく中、広島の東洋工業(現マツダ)から日本初の量産ロータリーエンジン車が発売された。しかし、搭載するロータリーエンジンの実用化は、簡単なものではなかった。

 同社でのロータリーエンジン開発は、昭和三十六(六一)年のNSU社/バンケル社(西ドイツ=当時)との技術提携に始まる。当時、東洋工業は三輪車生産の有力メーカーであったが、シェアは頭打ちとなり、四輪乗用車の生産へ参入していく。そして、昭和三十五(六〇)年、軽乗用車マツダR360クーペを発売した。

 そのころ、日本の自動車産業では貿易自由化が話題となっており、まだ国際競争力の低い日本では、自由化が実施される前に日本のメーカーが強くなっておく必要があった。このため、通産省(現経済産業省)は、乗用車の生産をトヨタと日産を中心とした少数メーカーに絞るという、自動車業界の再編構想を考えている。

 これは、四輪乗用車生産において新参者である東洋工業にとっては、存続にかかわる大きな問題だった。これにより、同社における当時革新的なロータリーエンジンの実用化の熱意は並々ならぬものとなった。(広島市交通科学館主幹・籔田芳雄)

(2009年3月3日朝刊掲載)

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