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連載・特集

ヒロシマの空白 証しを残す 白血病の死者 <4> 山あいの住民

父の発病で生活一変

 広島市中心部から北東に約40キロの安芸高田市丹比(たんぴ)地区。山あいののどかな集落の一角に、「原爆症のため死亡」と刻まれた墓がひっそりとたたずんでいる。白血病を発症し、1955年に51歳で亡くなった恵京(えきょう)吉郎さんが眠っている。

 「やさしい、真面目なええおやじじゃった。歌が好きで、流行歌のレコードをよう聞きよったねえ」。そばに自宅がある長男憲明(としあき)さん(92)は墓に手を合わせると、元気な頃の父の思い出に笑みを浮かべた。

 だが、発病で家族の生活は一変した。手記集「原爆に生きて」(53年)に収められている恵京さんの闘病中の手記「白血病と闘う」から浮き彫りになる。

 被爆前、恵京さんは広島市内の工場に勤め、妻子と楠木町(現西区)で暮らしていた。45年8月6日は、爆心地から約2キロの自宅で被爆。市立第一工業学校(現県立広島工高)2年だった憲明さんも動員先の工場でけがを負った。

 戦後の食糧難の中、恵京さんは母が住む丹比地区(当時は丹比村)に帰郷。村役場に勤めながら農業をしていた。体調の異変に襲われたのは、被爆から6年後の51年6月。田んぼで農作業中、「牛で二十間ばかり鋤(す)くと眩暈(めまい)がした」(手記)。

 その後も何度も吐血し、食欲は減って無理に食べると吐いた。8月に広島市の広島赤十字病院で診察を受け、慢性骨髄性白血病と診断。すぐに入院した。

医療費負担重く

 だが、膨大な医療費が家族にのしかかった。その頃、三次市内の電電公社の管理所に勤めていた憲明さんは「苦しい生活じゃった」と明かす。「おやじの収入はなくなり、私のわずかな給料だけで医療費と入院費を出すのは本当に大変で…。だいぶ借金をしました」

 恵京さんも苦しかった。「子の持って帰る俸給を使う事は面目ない」(手記)。早く治して働きたいと願ったが、治癒は見通せなかった。病床の父は次第に痩せ細る。一時退院を挟んで約4年の闘病の末、転院先の広島市民病院で55年12月に亡くなった。

 憲明さんはこの年に結婚し、翌年に第1子が生まれた。「原爆症じゃからもう治らんのじゃろうとは思っとったが、結局孫も見せられんかった」。寂しそうにこぼした。

 「原爆症で苦しむ人に保障制度を設けて安心した楽しい生活の出来るように導いて戴(いただ)きたい」。恵京さんは手記の中で、苦境に無念をにじませて切に訴えている。

救済制度始まる

 同様に援護を求める声はその後ますます高まり、56年5月に広島県被団協が結成。政府への要請などが実り、57年4月に国が原爆放射線の健康被害を救済する旧原爆医療法が施行され、被爆者健康手帳交付が始まった。さらに94年、現行の被爆者援護法が成立。国の医療費負担や手当支給といった援護策が講じられている。

 ただ、恵京さんは援護だけでなく米軍の原爆投下の悲惨な実態を訴えていた。「多数の非戦闘員を殺し、又死に勝る苦しみの中に突落(つきおと)した」(手記)。今も多くの被爆者が非人道的な核兵器の禁止を訴えているが、核保有国はおろか米国の「核の傘」に依存する日本政府も背を向けている。

 恵京さんの墓の「原爆症のため」の文字は、憲明さんが希望して刻んでもらった。「なぜ死んだのか後々まで分かるように」と記憶の継承を願ってのことだ。昔は地元の子どもが平和学習で墓参りに来たこともあった。爆心地から遠く離れた山あいの暮らしまでむしばんだ原爆の非人道性を今も変わらず伝えている。

(2023年3月24日朝刊掲載)

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