×

連載・特集

「親鸞」は今 誕生850年 <下> 関係性の中で

宗教学者 阿満利麿さん

歎異抄に学ぶ「平等」

他者と生きる人たちの手がかり

納得するまで質問 自分のものに

  ≪宗教学者で明治学院大名誉教授の阿満利麿(あまとしまろ)さん(83)は親鸞研究の第一人者として知られる。「無宗教」の風潮が強い日本社会に警鐘を鳴らし続けてきた。人生の支えを求める人の手がかりとなり得るのが、親鸞の言葉を弟子が書き留めた「歎異抄(たんにしょう)」だと説く。(山田祐)≫

 ―なぜ「無宗教」が広がったのでしょうか。
 宗教は2種類に分けることができます。創唱宗教と自然宗教です。

 創唱宗教とは教祖がいて教義があり、信者がいて教団がある。仏教やキリスト教などがそうです。

 自然宗教というのは自然にいつの間にかでき上がったもので、亡き肉親の鎮魂や慰霊を主とした宗教意識を指します。人が亡くなれば法事をする。最後はご先祖や仏になる。多くの日本人は自然宗教の信者であると言えます。無宗教という自覚は創唱宗教を念頭にしたものです。

 平常の穏やかな暮らしの中では、ご先祖に手を合わせることで安心感が得られます。しかし人生には思わぬ出来事が起こるものです。人生観が揺さぶられ、何を頼りに生きていけば良いのか分からなくなることもあります。そのような状況では、創唱宗教が対処するいろいろな方法を語っているわけです。

 ―創唱宗教の果たすべき役割は大きいのですね。
 でもそれは自分一人が救われるためのものではありません。仏教は慈悲、キリスト教は愛の実践をそれぞれ説きます。

 たとえば浄土真宗で大切にしている「阿弥陀仏の本願」。阿弥陀仏が仏になる前に法蔵という人間だったときの誓いですが、自分自身のことは一切願わず、すべての人を救うことだけを願っています。自分が救われたいために仏道を歩むというのは間違いだということから出発しているんですね。

 人は1人で生きていません。われわれは一人一人自分の力で生きてるように思いがちだけれども、いろいろな人との関係の中で生きています。だからこそ、巨大な関係性全体を見通す知恵が必要です。

 その手がかりとなるのが、経典や聖書など宗教的古典だと思います。

 今、自然宗教はどんどん痩せ細っています。先祖崇拝は地域の連帯の中で成り立ってきましたが、地域共同体が今消滅に向かっているからです。

 ―加えて近年は新型コロナウイルス禍やウクライナ情勢の影響が長引き、社会を覆う息苦しさが増したように思います。
 戦争という人災がいつまで続くのか、コロナ禍で露呈した経済的格差の激しさにどうやって対処すればいいのか―。まっとうに生きたいという当たり前の願いでさえも無視され続けている現状があります。

 どこか落ち着かない、いろいろな不安が生じがちな社会。だからこそ、宗教的古典の一つである歎異抄が近年、多くの人に好まれているのではないかと考えます。

 ―歎異抄から何を学ぶことができるのでしょうか。
 浄土教がすごいのは、阿弥陀仏の名を唱えるという簡単な方法が、普通の人間と真実の世界をつないでくれる役割をすることです。その教えを親鸞から直接聞いた弟子の唯円が書き記したのが歎異抄です。

 歎異抄の結文に次の一節があります。この世の中に「まことある」ことはなく、空言、たわ言の連続だ、とした上で「ただ念仏のみぞまことにておはします」と記しているのです。

 なぜ「念仏のみ」なのか。それは、阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」という6文字の「名」になっているからです。私が念仏を唱えるときにだけ、私にとって阿弥陀仏は存在するんです。それは誰にでも平等で、誰かを排除することはありません。

 歎異抄では他の部分でも「念仏とはどういうものか」が繰り返し説かれています。他者との関係性の中で生きる人々に、人間の平等性を教えてくれるのです。

 ―そこまで読み解くのは簡単ではないですね。
 習慣として念仏を唱えるだけで本当にその人にとって究極的な支えになるかというと、それは分かりません。

 お勧めしたいのは、歎異抄を自分のものにしている人のもとに付いてしっかりと話を聞くことです。そして自分が納得するまで質問し続ける。歎異抄は確かに非常に優れたテキストですが、こういう作業を経て初めて、自分の最終的なよりどころになってくれるのだと思います。

(2023年3月27日朝刊掲載)

年別アーカイブ