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連載・特集

[私の道しるべ ヒロシマの先人たち] NPO法人理事 渡部久仁子さん(42)

中沢啓治(漫画家)

諦めない「麦の心」作品に

 「あんたらには分からんよね」。小学5年の時、被爆者のおじいさんに掛けられた言葉が、長く胸に引っかかっていた。そのおじいさんの真意に気付かせてくれたのが、漫画家の中沢啓治さん(2012年に73歳で死去)だった。自らの被爆体験を基に「はだしのゲン」を世に送り出した中沢さんの半生を追い、11年ドキュメンタリー映画を製作。中沢さんの「遺言」を伝え続けている。

 26歳だった07年の夏、広島市内で中沢さんが被爆体験を語るイベントのチラシを偶然見つけた。10歳の頃に読みふけった漫画の作者だと気付いて参加すると、中沢さんは肉親を奪った米軍の原爆投下に対する怒りを真っすぐに語っていた。「胸にズドンと来た。この人は本気で怒っている。自分の知りたかったのはこれだと思った」

 子どもの頃から「世界平和」や「核兵器廃絶」にまとめる証言を聞くたび「被爆者はこう話さないといけないと考えて、本音で語っていないのでは」と感じてきた。考えてみれば「家族が殺されたら怒るのが当たり前。愛する人の死が核兵器廃絶の布石になれば、なんて最初から思えるわけない」。被爆者たちが心に抱える原点の怒りが腑(ふ)に落ち、会場で涙があふれた。

 中沢さんの作品を読み直した。小学生の頃、被爆の惨状を想像する助けになった「ゲン」は、大人になって読むと戦後の被爆者の人生がさらにリアルに感じられた。殺し屋の被爆青年が米国人に復讐する「黒い雨にうたれて」を描いた中沢さんの胸の内も分かる気がした。

 あの夏から2年後、NPO法人ANT―Hiroshima(中区)の理事長を務める母の朋子さん(69)が活動の一環で中沢さんをインタビューするという。会いたくて撮影に同行した。

 中沢さんが6歳の時に被爆した爆心地から約1・2キロの場所や、父や姉、弟が家の下敷きになって亡くなった自宅跡、被爆直後に生まれ間もなく亡くなった妹の遺体を焼いた海岸を一緒に歩いた。「ゲン」の場面に重ねながら中沢さんのヒロシマを追体験した。

 単なる証言映像でなく、映画作品にするよう背中を押してくれたのは中沢さんだった。「漫画のように思わぬ広がりがあるかもよ。思い切りやってみなさい」と言われた。製作プロデューサーとして指名され、映画を商品化するために企画・制作会社を設立。中沢さんの証言映像に、原画や創作秘話なども加え、ドキュメンタリーに仕上げた。

 最後の撮影の日、中沢さんはがんで入院が決まっていた。それでも「遺言だから」とインタビューに応じてくれた。中沢さんから学んだのは、「『ゲン』にも登場する、何回も踏まれて強く育つ『麦の心』。つまり、諦めない心です」

 「はだしのゲン」という作品自体が、それを体現する。1973年に「週刊少年ジャンプ」誌で連載が始まり、3度の中断など曲折を経て、雑誌を変えながら87年まで続いた。妻ミサヨさんに支えられ、なおも描き続けた中沢さんの思いも映画「はだしのゲンが見たヒロシマ」に収めた。

 完成後、中沢さんは病状が悪くなるなか、依頼があれば車いすに酸素ボンベ姿で講演した。「ここでも麦の心を見せてもらった」

 今年は「ゲン」の連載開始から50年。「常に未来を見据え何ができるか考え、できる行動をする人だった。受け取った私はそれに応える責任がある。『麦の心』で歩みを止めず、伝え続けたい」(湯浅梨奈)

わたなべ・くにこ
 広島市西区生まれ。大谷大卒。2010年に企画・制作会社トモコーポレーションを設立し代表取締役。16年から「ANT―Hiroshima」スタッフと兼任し、現在同法人理事。製作した映画「はだしのゲンが見たヒロシマ」は平和・協同ジャーナリスト基金審査員特別賞、米ビバリーヒルズ映画祭ジャパン長編ドキュメンタリー部門グランプリを受賞。ことしの「はだしのゲン」連載開始50年に合わせ、記念イベントを計画中。安佐南区在住。

はだしのゲン
 中沢啓治さんが自身の被爆体験に基づいて描いた漫画。原爆に遭い、家族も奪われた少年・中岡元が被爆後の広島で懸命に生き抜くストーリー。戦争に突き進んだ日本の指導者層と、戦争協力への過去を省みない人々と社会の姿も描いている。単行本や絵本がロングセラーとなっているほか、多言語に翻訳され、世界に広がっている。広島市教委は平和教育教材で作品を引用していたが、2023年度の見直しで削除され、波紋が広がっている。

(2023年3月27日朝刊掲載)

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