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連載・特集

ヒロシマの空白 証しを残す 白血病の死者 <6> 親友の手帳

「生きたい」無念伝える

 「原爆症って死ぬのを待つだけなのかしら」「病気に負けることは人生を放棄すること がんばろう」

 手のひら大の手帳に、ペンや鉛筆で走り書きされた文字がびっしりと並ぶ。被爆17年の1962年、24歳で白血病と診断された末次君子さんが広島市内の広島原爆病院(現中区の広島赤十字・原爆病院)の病室でつづった。不安に襲われながらも、治癒を諦めない強い意志が伝わってくる。

 末次さんは7歳の時、爆心地から約1キロの寺町(現中区)の自宅近くで被爆。自宅にいた妹真佐子さん=当時(4)=は犠牲になり、父が営んでいたはんこ店は全焼した。

 戦後は可部町(現安佐北区)で生活。近所だった友近純子さん(85)=安佐北区=は同じ祇園高に通い、大の仲良しだった。「『末ちゃん』と呼んでいました。ちゃめっ気たっぷりで、何でもないおしゃべりも楽しくて」。卒業後も、岡山や四国を一緒に旅行した。

心の中で祈った

 末次さんは短大を卒業した後、広島電鉄(現中区)で電話交換手として働いていた。ところが62年8月、腕に斑点が出て全身にだるさを感じた。急性骨髄性白血病と診断され、原爆病院に入院した。

 友近さんが10月ごろにお見舞いに行くと、元気そうに見え、互いの近況を話して別れた。だが、白血病は体をますますむしばんだ。年が明けて訪ねると、容体が悪く「面会謝絶」。友近さんは、「末ちゃん、生きて」と心の中で祈った。しかし、63年2月、親友は25年の短い生涯を終えた。

 あまりに早い別れから10年近く後。友近さんは子どもが通う学校のPTA新聞に末次さんのことを書こうと思い、母のハナコさん(85年に74歳で死去)を訪ねた。ハナコさんは、初めは涙でかすんで読むことができなかったという遺品の手帳を見せてくれた。

 手帳には、末次さんが闘病中に思いの丈をつづっており、家族への愛情や生きたいという願いにあふれていた。「お母ちゃん お母ちゃん 私の一番大好きな人」…。友近さんは胸が詰まるとともに、固く決意した。「これは、絶対に活字にして残さないといけない」

 手帳を借り、末次さんと親しかったほかの友人と協力して、消えかかった文字も目に付く手帳から一字一字を書き起こした。死去から10年の73年、家族や友人の追悼文も収めた冊子「追憶抄」にまとめられた。

最後のページに

 手帳の闘病記は22ページにわたり、末次さんは亡くなる数日前も書き続けていた。日付はないが、容体がいよいよ悪くなる前とみられる最後のページにはこう記していた。「よくなろう 生きよう 生きぬこう」

 「追憶抄」は原爆資料館(中区)の書庫などに保管されているが、知る人は少ない。市内での先進7カ国首脳会議(G7サミット)が迫る今、友近さんは一人でも多くの人に親友の思いを受け止めてほしいと訴えている。「末ちゃんの『生きたい』という言葉の意味することは、それをできなくさせた戦争、原爆には絶対反対ということです」

 戦後、増加率と死亡率の高さから「原爆症」の代名詞となった白血病。広島大教授を務めた故大北威(たけし)さんの研究によれば、広島の爆心地から2キロ以内の被爆者の発症は被爆30年の75年までだけで221人に上った。復興が進む一方、市民の日常が壊され、命が奪われ、家族の暮らしも一変させられた。

 12歳で未来を断たれた佐々木禎子さんが残した折り鶴も、その核兵器の非人道性の証人といえる。G7サミットへ向け、被爆地が平和の願いのシンボルとして発信している折り鶴。私たちはその姿から、戦争と原爆による計り知れない「平和の喪失」をあらためて考え、世界に伝えるべきだ。(編集委員・水川恭輔)

 連載「ヒロシマの空白 証しを残す」の「白血病の死者」編は終わります。

(2023年3月26日朝刊掲載)

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