×

連載・特集

ヒロシマの空白 証しを残す 白血病の死者 <5> 母の日記

娘への愛 いまかみしめる

 福岡県田川市に住む木村真美さん(67)には、子どもの頃から大切にしてきた本がある。1961年に出版された「かえらぬ鶴」。3歳の時に亡くした母瀬戸奈々子さんが病床で書いた日記が収められている。骨髄性白血病を患っていた。

 「母の記憶は、ほとんどないんです。息を引き取る前、祖母に促されて首に抱きついた記憶とかが、頭の端にかすかにあるぐらいです」。ただ、10歳を過ぎた頃からこの本で母のことを深く知るようになった。

 母奈々子さんは戦時中、福島町(現広島市西区)で自身の母の故林田ミヤコさんと弟と生活。12歳だった「あの日」、爆心地から約1・2キロの天満国民学校(現西区の天満小)に登校していて被爆し、顔にけがをした。

 奈々子さんの父は戦死し、ミヤコさんが中華そばの屋台や行商をして2人を育てた。苦労を見てきた奈々子さんは女学校を中退して美容師になり、今の西区に小さな美容院を開いた。53年に結婚し、56年2月に長女真美さんが生まれた。

「うらまないで」

 だが翌57年、貧血で倒れた。白血病と診断され、11月から広島原爆病院(現中区の広島赤十字・原爆病院)に入院した。「マミよ、こんな病気の母をうらまないで」(58年12月14日の日記)。病室で、離れ離れになった一人娘の真美さんへの思いを何度となくノートにつづった。

 「マミは二日見ないと淋(さび)しい」(58年1月15日)「しばらくぶりに、一日、マミと遊ぶ。『母チャン、モウ一ツ、ネンネシタラ、トウチャント、母チャント、マミチャント、フクヤ(福屋)ヘイコウネ』と私を泣かせる。早く、その日のくるようにと祈る」(59年1月12日)「入園式までには、間に合いたい」(同1月14日)

 容体が悪化していた59年4月9日、ミヤコさんは幼稚園の入園式に出られなかった奈々子さんのため、真美さんに制服を着せて病室を訪ねた。奈々子さんはうれしそうな表情を浮かべ、弱々しい声を絞り出すようにして娘と一緒に童謡「夕焼小焼」を歌った。

遺影を掲げ行進

 しかし、翌朝に息を引き取った。死の間際、何度も「真美ちゃん」とささやいたという。26歳だった。

 ミヤコさんは2年後、遺品の日記と自身の手記を収めた「かえらぬ鶴」を出版した。「わたしたちの人生はぬりかえられてしまったけど、このことが、せめて平和の一たんともなれば」(手記)。毎年8月は真美さんを連れ、市内の平和行進に参加した。奈々子さんの遺影を掲げて歩いた。

 初めはミヤコさんが押す乳母車に乗って行進に参加していた真美さんは、やがて子どもの平和団体「広島折鶴(おりづる)の会」の活動に加わった。「祖母が会の方とつながりがあったので、自然と加わりました」。小学生の頃から、原爆ドーム保存費用の募金活動などに取り組んだ。

 その後、福岡県出身の夫と結婚し、子ども5人を育てた。平和活動から遠のいたが、母の言葉は一層現実味を帯びて迫ってきたという。「もし、この子たちを置いて逝くとなったらどんな気持ちだろうと考えました。生きたいのに、それがかなわなかった母は本当につらかったと思います」

 巣立って各地で暮らす子どもにも「かえらぬ鶴」を1冊ずつ持たせている。5月に古里広島市で先進7カ国首脳会議(G7サミット)がある。自身もあらためて母の思いをかみしめている。「戦争や核兵器の被害は、普通の病気と違って人間の意志で抑えられる。核を使ったらどうなるのか、首脳は広島で想像力をつけてほしい」と話す。

(2023年3月25日朝刊掲載)

年別アーカイブ