×

連載・特集

[ヒロシマの声 NO NUKES NO WAR] 最大の戦災者は子ども 原爆孤児 河井猛さん(85)=防府市

≪7歳の時、原爆で家族3人を失い孤児となった。大けがを負った父は、一緒に川を渡って逃げている途中に無言で川底へ沈んだ。今でも当時を思い出し、涙があふれる。60歳を過ぎてから小学校で体験を語り、子どもから見た原爆と戦争を伝えている。≫

動画はこちら

 どの時代でも、戦争の一番の犠牲者は幼い子どもだ。親を失った苦しみを一生背負う。行き場もなく惨めだ。ウクライナの子どもたちは、どういう目で大人を見ているだろう。

 被爆前は両親と弟の4人で、爆心地から1・2キロの広島市楠木町1丁目(現西区)に住んでいた。三篠国民学校(現三篠小)2年生だった私は近くの神社で被爆した。川へ逃げるとけが人を乗せた船があり、近くの工場で被爆した血まみれの父がいた。自分の服を水でぬらし、父の体を何度も拭いた。か細い声で「たけし…」と呼んでくれた声が耳から離れない。

 船は人が乗り過ぎて転覆した。黒い雨が降る中、父と板につかまったが、いつの間にか父の姿が消えた。「おとうちゃん!」と声がかれるほど叫んだ。父に名前を呼ばれていたら、助けようとして一緒に沈んでいただろう。父の最後の優しさだが、あまりにもつら過ぎる別れだ。

 翌日、1人でいた子どもはトラックに乗せられて郊外の農家に預けられた。何日かいたが、母と2歳の弟に会いたくなり夜中に抜け出した。自宅跡には2人の遺骨があった。死体をたくさん見ていたから何の感情も湧かなかった。

 一般家庭や警察署にも預けられたが、肉親に会いたかった。見ず知らずの大人にお金や食料をもらいながら山口県周防大島の祖母宅に行った。周りに被爆者がおらず、学校で「原爆がうつるから来るな」といじめられた。悔しかった。健康への不安も常にあり、50代で大腸がんを患った。

 助かったからこそ伝えなければと思い、防府市内の小学校で体験を語っている。毎回、子どもの真剣なまなざしに希望を感じる。

 一方、戦争のニュースはつらくて見られない。今も夜になると、父との別れを思い出して涙が出る。ロシアのプーチン大統領は原爆資料館(中区)を訪れ、核兵器がどんなものかを知ってほしい。子どもにとって親は何にも代え難い存在だ。私のような別れを誰にも味わわせてはいけない。(聞き手は山下美波)

(2023年3月29日朝刊掲載)

年別アーカイブ