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連載・特集

[モノ語り文化遺産] ベヒシュタインピアノ 戦禍越えた再起の鍵盤

独の名品2台 広島と尾道に

 100年以上前にドイツで製造されたベヒシュタイン社のピアノが、広島と尾道の両市に現存する。人々から忘れ去られそうになった2台は息を吹き返し、優しい音色を取り戻した。戦禍をくぐり抜けた歴史を背負いながら―。(西村文、桑島美帆)

 歳月を経て古色がかった鍵盤ぶたを開けると、「C BECHSTEIN」の金文字が光った。背面にある「53420」の刻印は1899年製であることを伝える。時代の荒波を受けたピアノは広島大病院(広島市南区)の倉庫に行き着き、昨年12月から付属のYHRPミュージアムで公開され始めた。

 1853年創立のベヒシュタイン社は、米国のスタインウェイ・アンド・サンズ、オーストリア生まれのベーゼンドルファーと並ぶ老舗だ。アップライト(縦型)に定評があり、色彩感のある透明な音色を持ち味とする。印象主義の作曲家ドビュッシー(1862~1918年)が高く評価し愛用した。

 くだんのピアノが日本に渡った詳しい経緯は分からない。明らかなのは、第2次世界大戦前に広島市立高等女学校(市女、現舟入高)の音楽教諭、沓木(くつき)良之さん(1893~1979年)がどこからか中古で購入し、段原(現南区)の自宅で所有したということだ。

 沓木さんは21年の市女開校時から教諭を務め、合唱団体の役職にも就いた人物。市女で教えを受けた加藤八千代さん(94)=西区=は「それはそれはすてきな演奏姿だった」と回想する。当時最高級だったベヒシュタインは、沓木さん宅で生徒らへのピアノレッスンに活躍した。

 そして1945年8月6日。公休で自宅にいた沓木さんは被爆したものの重傷は負わずに生き延びる。市女の生徒は676人が落命し、市立中(現基町高)1年だった沓木さんの六男明さんは建物疎開中に行方不明に。一方、ベヒシュタインは、行き先は不明だが疎開させていたため無事だった。戦後、沓木さんは自宅でベヒシュタインを弾き続けたという。

 時は流れ、沓木さんの遺族が2000年12月、近くの広島大病院に寄贈。院内コンサートに登場しては入院患者らを和ませた。病院の新棟の建設を機に約10年前、倉庫へ。元学長の原田康夫さん(91)の提案で修復を受けてYHRPミュージアムに展示され、人々の目に触れることとなる。

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 もう1台のベヒシュタインは1906年製と推定されるグランドピアノで、尾道市の尾道東高にある。31年、前身の県立尾道高等女学校時代に同窓会が購入し、学校へ寄贈した。グランドの最上級品は当時、同校と東京音楽学校(現東京芸術大)など国内に3台しかなかったといわれる。

 「透き通った、なんとも言えん音色だった」と卒業生の丹藤美智子さん(91)。戦争末期、陸軍船舶司令部(暁部隊)が学校を占拠し、ピアノのあった講堂は軍靴に荒れた。見かねた校長が呼びかけ、女学生が長椅子を運び入れた。「ピアノの周囲に高く高く積んで、守ったんよ」

 やがて終戦後の53年、英国人ピアニストのソロモンが広島市でコンサートを開いた際には、わざわざ尾道から運ばれた。しかしその後、急激な時代の変遷を受けて尾道東高体育館の隅で忘れ去られる。

 90年、創立80周年記念にピアノを新調する話が持ち上がる。丹藤さんたち卒業生は、新しいピアノを購入するのではなく古きベヒシュタインをよみがえらせようと提案。ドイツから技師を呼び、600万円かけて修復がかなった。体育館に温湿度管理ができる専用のピアノ庫も新設した。

 2004年からは毎秋演奏会を開き、生徒が鍵盤に指を走らせる。「柔らかい音色でよく響く」と1年の市川凛さん(16)。昨秋、リストの「愛の夢」が全校生徒の前で響き渡った。

明治期 米国から搬入の逸話

 広島で初めてピアノの話が登場するのは、1887(明治20)年だ。広島女学院(当時は英和女学校)の初代校長ナニ・ゲーンスが、米国からアップライトピアノを持ち込んだ。荷揚げ作業員が西洋の仏壇と思い込んだとの逸話が残る。

 能登原由美・大阪音楽大特任准教授によると、大正時代末期には広島高等師範学校(現広島大)にスタインウェイ社のピアノが入り、海外の著名ピアニストの演奏会も始まる。

 ピアノは貴重品だったため、太平洋戦争末期には疎開も行われた。爆心地から約1・2キロの現天満小から湯来町に児童と集団疎開していた教員は記す。「私は(原爆投下の直前)天満小に『今からトラックでピアノを疎開したいので運動場へ出しておくように』と電話を掛けた」「数日たって天満小の講堂跡へ行ってみると、片隅に1メートル四角の鉄の塊を発見した。哀れなピアノの残骸である」(「証言 湯来のヒロシマ」1993年)

(2023年3月30日朝刊掲載)

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