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連載・特集

5・19~21 広島サミットまで あと50日 復興 あのとき

再生の歩み 教訓に

 ヒロシマのレジリエンス(回復力)に学びたい―。世界各地で戦争や紛争がやまない中、被爆地は希望の地であり続ける。1945年8月6日、米軍が投下した一発の原子爆弾によって壊滅した広島。「70年は草木も生えぬ」とも言われた惨状からどう復興したのか。そこにどんな教訓があるのか。国内外から首脳たちが集う先進7カ国首脳会議(G7サミット)まであと50日。いま一度、まちの歩みを見つめ直したい。

被爆3日後には「一番電車」

 車窓から見る景色は一面、焦土だった。1945年8月9日に、己斐―西天満町で運行を再開した路面電車に、笹口里子さん(92)=広島市西区=は車掌として乗務した。当時14歳。「運賃は要らないと会社に言われてね。うれしそうにお礼を言う乗客もおられましたよ」と振り返る。

 広島電鉄(中区)は従業員185人が原爆死し、市内線用の123両のうち108両が被災したと社史に刻む。それでも被爆3日後に「一番電車」を走らせた。段階的に運行エリアを広げ、10月半ばには己斐―広島駅間の全線で復旧を果たした。

 市の広島原爆戦災誌によると、広島鉄道局も「徹宵の努力」で復旧を進めた。6日、救援列車が広島―西条を運行。7日に宇品線が通常運転に戻り、8日に山陽本線、9日に芸備線が運行再開した。

 市内全域の停電は少しずつ解消。7日に軍事施設のある宇品方面、8日に広島駅周辺などへの送電が再開され、11月末には、市内に残った全ての家屋に明かりがともった。水道も爆心地から2.5キロ北の牛田浄水場の電気設備が壊され、給水に必要なポンプが停止したが、職員が予備のポンプを応急修理し「不断水」を守った。

 こうした復旧を支えた市民たち自身も被爆していた。笹口さんは皆実町(現南区)にあった広島電鉄家政女学校の寮の食堂にいて下敷きに。避難先では、次々に運び込まれる広電職員を看護した。「まだ戦時下でしょう? 私も役立たんと、と思っていた。それにあの頃はみな、心が強かったですよね」。少し誇らしげに語った。(編集委員・田中美千子)

惨禍の証人「ドームをシンボルに」 建築家や市民の思い結集

 緑豊かな広島の街を象徴する平和記念公園(広島市中区)。元安川と本川に挟まれた三角州内の「旧中島地区」を中心に、広さは約12万平方メートルある。被爆前は店や民家が立ち並んでいたが、爆心地に近く壊滅した。今も当時の遺構が地中に眠るこの地で公園整備が本格的に動き出したのは、被爆4年後の1949年だった。

 「広島市は世界平和記念都市として再建する」(設計案の募集要項)。市はこう掲げ、「最もふさはしい」平和記念公園を築こうと、49年5月20日に設計案の募集を始めた。「平和記念館」の建設も条件。平和運動に関する国際会議の開催や被爆資料の収集を想定していた。

 壮大な構想は、市や市議会の要望を受け、直前の5月11日に国会で成立した広島平和記念都市建設法と密接に関わる。現行憲法下で初の住民投票により過半数を得て8月6日に公布。恒久平和を象徴する平和記念都市として広島市を再建するのを目的とし、国をはじめ関係機関ができる限り援助するよう定めていた。

 この動きも相まって設計案の募集は注目を集め145点の応募があった。1等に入選したのは、建築家の故丹下健三・東京大助教授(当時)のグループの案。現在の原爆資料館本館と原爆慰霊碑とを結ぶ公園中央の「軸線」上に、原爆ドーム(被爆時は広島県産業奨励館)を望めた。

 「原爆投下はショックでした(略)私は原爆の悲惨さ、恐ろしさが分かってこそ平和は生まれるという考え。それでドームをシンボルに配して設計したわけです」。戦前に旧制広島高(現広島大)に通い、戦後に日本を代表する建築家になった丹下さんは本紙連載「検証ヒロシマ」(95年)の取材にそう語っている。

 国が財政面で整備を支援。52年に原爆慰霊碑ができて平和記念式典の会場になり、55年には原爆資料館が開館した。ただ、肝心のドームを巡っては「原爆の惨事を思い出したくない」と、解体を求める市民の声が根強かった。

 そんな中、市内の児童生徒たちでつくる「広島折鶴(おりづる)の会」が60年8月、保存を訴える署名集めを始めた。「あの痛々しい産業奨励館だけがいつまでも恐るべき原爆を世に訴えてくれるだろう」―。1歳で被爆し、60年4月に白血病のため16歳で亡くなった楮山(かじやま)ヒロ子さんの日記に突き動かされていた。

 世論は次第に保存へ傾き、市議会が66年に「保存は後世への義務」と決議し、存廃論争は決着した。会に加わって署名活動をした三上栄子さん(76)=南区=は「ヒロ子さんの思いが実現したといううれしさが一番でした」と話す。

 あの日、被爆を強いられた幾多の死者の思いを刻むドームは、96年の世界遺産登録を挟んで5回の保存工事が施され、惨禍の証人であり続ける。ただ、ウクライナに侵攻したロシアが核使用を辞さない構えの今、三上さんは「ドームが泣いている」と言う。

 原爆慰霊碑に向き合えば、丹下さんが描いた軸線の先にドームがある。何を感じ、どう行動するのか。広島サミットに集う首脳たちの本気度が問われる。(編集委員・水川恭輔)

平和のまち 世界へ向け発信

70年代に本格化 首長会議は8240都市に

 平和への願いを世界中に広げるまち―。広島市が1970年から掲げる「目指す都市像」の一つだ。市が海外に向けた発信を本格化したのも、この頃だった。

 76年、被爆者の荒木武市長は初めて米ニューヨークの国連本部に赴き、ワルトハイム事務総長に核兵器廃絶を直談判した。82年には国連軍縮特別総会で、都市間の連帯を提唱。この演説が平和首長会議の前身、世界平和連帯都市市長会議の発足につながった。

 「ヒロシマの世界化を一層おし進める」(93年、平岡敬市長の平和宣言)。「一日も早く人類が核兵器を全廃するよう、世界に訴え続けたい」(2000年、秋葉忠利市長の平和宣言)。歴代市長は海外に出向くだけでなく、国際会議を誘致するなど、被爆地に足を運んでもらう働きかけも進めた。

 市は98年から核兵器保有国、06年から全駐日大使を平和記念式典に招待。首長会議の加盟都市は166カ国・地域の8240都市(3月1日時点)まで膨らんだ。

 市民の間でもヒロシマの知名度が上がったとみられ、原爆資料館を訪れる外国人は19年度まで7年連続で過去最多を更新していた。ただ、新型コロナウイルス禍で激減しただけに「サミットは広島が注目を浴びる好機」と市観光政策部。被爆の痕跡や復興を象徴する施設を周遊する「ピースツーリズム」のPRに力を入れるなど、海外からの誘客を図る。(田中美千子)

紙面編集・益田里穂、グラフィック・大友勇人

(2023年3月30日朝刊掲載)

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