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連載・特集

広島サミット 復興 あのとき <1> カープ

 ロシアによるウクライナ侵攻が続く中、5月に広島市で先進7カ国首脳会議(G7サミット)が開かれる。1945年8月6日、米軍の原爆投下で壊滅した被爆地は、まちをいかに再建したのか。何が市民の心を支えていたのか。戦災復興の道しるべとなる、あのときの広島を振り返る。

立ち上がる強さ象徴

 66年前の夏、原爆で焦土となった広島市街地の夜空をまぶしいほどのカクテル光線が照らした。地元企業10社が建設費を寄付し、1957年7月に完成した広島東洋カープの本拠地広島市民球場。心を奪われた人もいる夜光は復興への希望の灯(ともしび)となった。

 当時、五日市町(現広島市佐伯区)から観戦に通っていた山本尚(ひさし)さん(79)=北九州市=もその一人。球場周辺はバラックが目立ち、「相生橋から下ると左手に市民球場。右に原爆ドーム、はるか先の福屋。今とは全く違い、ビルがなかった」と記憶をたどる。

 山本さんを含め両親、兄姉も被爆した。被爆翌年の秋に3学年下の弟が生まれた家族間では、原爆の話が禁句だったという。そんな一家だんらんの場は50年に創設されたカープが中心になる。率先して野球を弟に教え、それまでの本拠地、広島総合球場にも渡し船に乗って兄弟で通った。

 創設期のカープは慢性的な資金難で、存続の危機を市民の限りない愛情で乗り越えてきた。経営の一助として、切り崩した貯金を差し出す人や「たる募金」に身銭を投じる人。山本さんも父が盛んにたる募金をする姿を見た。こうした熱意がナイター球場の建設にもつながった。

 広島市民球場はファンを引き付けた。観客動員が大幅に増え、球団は入場料収入を補強費に回した。ドラフト会議では有望な選手も獲得。68年11月、山本さんの弟は憧れていたカープから1位指名を受け、鳴り物入りで入団した。後にミスター赤ヘルと呼ばれる「山本浩二」の誕生だ。

 しかし、山本さんはこの頃からカープと距離を置いた。入団後、成績が伸び悩む弟は厳しいやじを受ける日々。「ひいきの引き倒しなんだろうけど、好機で打てなかった浩二がたたかれるのが苦になった。父は毎日、球場へ行っていたが…」。かわいさ余って憎さ百倍となるファン気質と肉親の情に揺れた。

 転機は75年。3年連続最下位のカープは夏を過ぎても優勝争いの主役にいた。ファンの期待は高まり、街は熱狂。選手には味わったことのない重圧がのしかかる。10月15日、東京の後楽園球場で創設26年目にして悲願の初優勝を飾った。

 4日後、広島市民球場の最終戦に駆けつけた山本さんは、この年、首位打者と最優秀選手を獲得する背番号8への大声援と喝采を見た。「本当にうれしくてね。浩二は努力家。それが親からもらった最高の才能だった。兄としてはうらやましさもあったかな。諦めず、鍛錬を積み重ねていた」。それは原爆から立ち上がり、郷土愛からカープを活力にした市民のただならぬ愛情も花開いた瞬間だった。(編集委員・木村雅俊)

 創設期の広島東洋カープは広島総合球場(現広島市西区、現バルコムBMW野球場)以外に、広島県内や中国地方の球場を転々として主催試合を開催していた。

 球界はナイター球場が主流となり、広島でも1954年1月に具体化へ動き出した。建設地の選定は難航したが、56年7月に広島市基町(現中区)に決定。12月に地元企業10社が建設費1億6千万円の寄付を申し入れ、57年2月に起工。5カ月の突貫工事で完成した。カープは本拠地として2008年まで使い、翌年にマツダスタジアムへ移った。

 カープの主催試合の観客動員は73年間で7600万人を超えている。

(2023年3月31日朝刊掲載)

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