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連載・特集

広島サミット 復興 あのとき <4> 児童施設

教員や日系人 支援実る

 被爆3年後の1948年5月3日、まだ焼け野原だった広島市基町(現中区)にかまぼこ屋根の大きな施設が誕生した。「何もない時代でしょう? 広くて立派で、本当にうれしかった」。医師の原田義弘さん(86)=中区=は振り返る。当時、本川小6年生。児童代表の1人として広島児童文化会館の開館式に臨み、皇太子さま(現上皇さま)から被爆地に贈られた野球道具を受け取った。

 当日はあいにくの雨だった。翌4日の新聞に載った原田さんも長靴姿だ。それでも、会館は児童であふれ返った。式典後は歌、踊りなどが「ふりしきる雨の音を打ち消して場内一ぱいにくりひろげられ」(4日付夕刊ひろしま)、占領軍の家庭の子どもを招いた交流会もにぎわった。

 被爆地の児童が興奮したのも無理はない。誰もが体や心に傷を負っていた。原田さんは45年春、今の平和記念公園(中区)内にあった生家を離れ、郊外の祖父方へ。8月6日は難を逃れたが、母方の祖父母や伯父たち多くの親類を失った。やはり医師だった祖父の元に、大やけどを負った人々が連日、行列を作った。

 47年から通った本川小は、爆心地からわずか410メートル。児童や職員約400人が犠牲となった。鉄筋の校舎はかろうじて倒壊を免れたが、窓枠がねじ曲がり、原田さんの教室は窓ガラスがなかったという。「冬は震える寒さでした」

 そんな中、児童文化会館の建設に動いたのは、市内の教員たちだった。47年8月の建設趣意書には「明るさと潤いを失つた児童たちの現状をみ、日本の将来を念(おも)い、止み難い児童愛と祖国愛に燃え立つた」とある。市から借り受けた公園用地へ、今の廿日市市にあった軍事工場を移築。資金調達に苦戦し、最後は広島市へ移管したが、映写機やオーケストラボックスを備えた大ホールを完成させた。

 原田さんは、音楽を愛した父東岷さんに連れ添われ、よく訪れた。軍医だった父は台湾から復員後の46年11月、市内で開業。被爆者医療に尽くしたことで知られる。「シャンソン、バレエ…。多感な時期に一流の音楽に触れさせてもらいました」。会館は一方で、市内の学校の「共同講堂」としても使われ、文化祭など各校の行事も開かれた。

 同じ基町には52年、児童図書館が完成した。外観は総ガラス張りで、平和記念公園も手がけた丹下健三氏の設計。北米の広島県人会など、海外の日系人から寄せられた多額の寄付金が建設を支えた。

 原爆の町の子どもたちに夢を―。二つの児童施設には多くの人々の思いが詰まっていた。文化会館が市青少年センター、児童図書館が市こども図書館に姿を変えた今なお、多くの市民に愛されている。(編集委員・田中美千子)

 被爆地の児童を物心ともに支えた米国人がいた。連合国軍総司令部(GHQ)元職員のハワード・ベル氏(1897~1960年)。47年に広島市の本川小を視察した際、窮状に心を痛めたらしい。計26ダースの鉛筆と色鉛筆、現金2500円を贈った。その後、母国の赤十字社や教会に協力を呼びかけ、支援の輪を広げた。

 児童文化会館とも関わりが深い。映写機やレコードを寄贈。開館式で祝辞を述べ、52年の市こどもまつりにも訪れた。市こども図書館は、ベル氏を通じて49年に届いた大量の洋書を「ベル・コレクション」として保管している。

(2023年4月3日朝刊掲載)

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