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連載・特集

[考 fromヒロシマ] 原爆孤児を「守る会」70年 「ノーモア」願い支援の輪

縁組し精神・経済の両面

 原爆で親を失った子どもたちを支えようと、70年前の1953年に広島大教授の森滝市郎さんたちが「広島子どもを守る会」を設立した。精神、経済両面で原爆孤児たちを援助する「精神親」を国内で募集。64年に活動を終えるまでの11年間で85組の縁組を実現した。その歩みや、支えられた孤児たちの証言からは、戦争や原爆が子どもたちに何をもたらすかが見えてくる。(小林可奈)

 「精神親が原爆孤児に寄せられる思いは、そのまま『ノーモーア・ヒロシマ』の願い」。広島子どもを守る会の会長に就いた森滝市郎さんは1953年8月発行の第1号会報(広島県立文書館所蔵)に、こうつづった。核兵器廃絶に向けた広島の訴えに重ねつつ、孤児支援の重要性を説いた。

 55年の精神親名簿には北海道や東京など各地の市民が連なる。日本に住む米政府関係者とみられる名前も。高卒(54年3月)の初任給が平均6110円ほどだった時代に、精神親は孤児1人当たり原則月千円を守る会を通して送った。加えて衣類を届けたり、文通したりと、親身になって子どもの成長を見守った。

 原爆孤児は6500人ともいわれる。49年に広島を視察した文芸誌主筆のノーマン・カズンズさんは米国内で「精神養子運動」を提唱し、広島流川教会牧師の谷本清さんたちが協力。50年度には「広島戦災児育成所」(現広島市佐伯区)などの約200人が支援を受けた。

 「日本人の手で精神養子を」。国内では52年末に広島大教授の長田新さんが週刊誌で訴え、広島大教育学部東雲分校(現南区)の学生たちが実現に向けて奔走。森滝さんや児童文学者の山口勇子さんたちが力を添え、守る会をつくった。全国紙で取り上げられるなどして、運動に賛同した精神親は全国に広がった。

 支援を受ける原爆孤児は学生たちが訪ね歩いたり、学校が仲介したりした。ただ、転居を強いられるなどで支援から漏れたケースも。全体の孤児の人数からすると、縁組できた子どもはわずかでしかない。

 援助は原則、孤児が18歳になるまでだったが、精神親や守る会の役員たちは、成長後も就職の身元保証などを引き受けた。会の青年部は「あゆみグループ」と呼ばれ、成長した孤児たちは広島大教授の中野清一さん夫妻と交流を深めた。

 森滝さんの次女春子さん(84)=佐伯区=は「自分の子と同年代の子どもが悲惨な状況に置かれていることに、父は胸をえぐられるような痛みを感じ、慈善事業ではなく、社会として子どもを守る必要性を訴えていた」と明かす。

 原爆孤児が大量に生まれた背景の一つには、政府が促進した学童疎開があった。広島市中心部から郊外へ疎開していて原爆を免れたが、両親や帰る家を失ったのだ。建物疎開作業などで市中心部に駆り出されていた親を失った子も多い。戦時体制の国策の被害者である。

お母さん 嬉しくて何から書いて良いやら

精神親に送り続けた手紙

 お母さんお元気ですか―。原爆孤児の山岡秀則さん(2020年に77歳で死去)が、1950年代から精神親の稲葉道子さん(00年に92歳で死去)に送り続けた100通以上の手紙が残っている。稲葉さんの死後に山岡さんが遺族から譲り受け、今は妻の昌子さん(79)=東広島市=が保管する。あどけなさが残る丁寧な文字から、原爆孤児の声が聞こえてくる。

 山岡さんは母親を病気で亡くした後、3歳の時に原爆で父親も奪われた。自らも今の南区で被爆。広島子どもを守る会を通じて小学5年の頃から稲葉さんの支援を受け始め、手紙のやりとりも始まった。

 ≪僕は嬉(うれ)しくて 何から先に書いて良いやら分(わか)りません(54年12月)≫

 稲葉さんから届いたクリスマスプレゼントへのお礼文に喜びがあふれている。

 ≪今日は 僕の忘れられない記念すべき大切な日です(56年1月)≫

 稲葉さんから初めて手紙を受け取って2年後の「記念日」には、こうつづる。誕生日や卒業式を迎えた際にも手紙をしたためるなど、月に1、2通送っていた。ただ、時に寂しさがにじみ出る文面も。自死を図るほどの苦しみを経験したという少年時代の山岡さんが、「お母さん」に寄りかかる姿が浮かぶ。

 原爆投下から10年を迎えた8月には、便箋のけい線の間をいっぱいに使い、力強く記していた。

 ≪もう二度とこんな恐ろしい爆弾が落される事のないよう 僕達親をなくしたものの願いです(55年8月)≫

 原爆孤児の訴えは、今の世界にも変わらず響く。

孤児の証言

三山一記さん

極貧生活の糧 月1000円の援助

 親戚宅の軒下を借りたバラックの家には、被爆10年近くになっても、水道も電気も通っていなかったという。 「みじめな時もあったけえ」。三山一記さん(82)=広島市西区=は幼少期を過ごした西区草津を歩き、つぶやいた。

 1945年8月6日、4歳の時に草津の自宅近くで被爆。小網町(現中区)に建物疎開作業へ出た母親は翌7日に亡くなった。父親はいつ、なぜ死んだのか分からないという。戦後、同居していた祖母と共にバラックへ移った。祖母は魚の行商で生計を立てたが、暮らしは困窮を極めた。

 炊事用などのため、家から100メートルほど離れた水くみ場へ通うのが、幼い三山さんの役目だった。冬は冷たく、こたえた。周囲の家には電気が通る中、ろうそく暮らし。薪を買う金がなく、枝を拾い集めた。祖母と生き抜くため、勉強する余裕はなかった。

 転機が訪れたのは中学1年の頃。広島子どもを守る会を介し、「姫路のお兄さん」3人組が、精神親となってくれた。毎月千円の援助は大きく、祖母は泣いて喜んだ。精神親は電気も通るよう計らってくれた。「あの時の喜びは、言い表せない」

 中学卒業後は九州の鮮魚店へ就職。過酷な仕事に耐え、20歳の頃に広島市内へ戻り、鮮魚店を構えた。結婚し、娘3人に恵まれた。「正月は、集まった家族に魚を振る舞うんです」。家族のだんらんも、正月のごちそうの思い出もなかったかつての原爆孤児は老いを迎え、温かな家族に囲まれている。

山田寿美子さん

自死考えた当時 心の支えに

 あの頃を振り返ると、悲しさや苦しさを思い出し、涙がこぼれ出す。山田寿美子さん(79)=広島市東区=は原爆孤児となり、親類方を転々とした。「どれだけ、気持ちが楽になるのかな」。中学生の頃には、列車から川に飛び降りる自死を考えた。広島子どもを守る会を通じた交流が、心の支えになった。

 山田さんは2歳の時、爆心地から2・3キロにあった三滝町(現西区)の母の実家で被爆。市中心部に建物疎開へ出た両親を原爆に奪われた。生き延びた兄姉3人とも離れ、就学前からの数年間は、7歳上のいとこと2人暮らしに。いとこは学校生活の傍ら、青果店などで必死に働いてくれたが、電気代や給食費を十分賄いきれなかった。

 守る会の支援を受け始めたのは小学4年の頃。関東地方の20代の客室乗務員の「お姉さん」が精神親となり、毎月の千円だけでなく、手紙や海外のハンカチも届けてくれた。「他人がここまでしてくれ、感謝しかなかった」

 ただこの頃は、いとことも離れ、親類方のわら屋根の倉庫2階で暮らしたり、農業を手伝ったりしていた。小中学校で友人はできず、「親なし子」と同級生から心ない言葉を浴びせられ、石も投げられた。当時の苦しみは、今も悪夢となって襲ってくる。

 生活を立て直せたのは中学卒業を前に長姉と暮らし始めてから。精神親や「お母さん」のような山口勇子さんに出会っていなければ、どうなっていただろう―。「戦争で一番の犠牲は子ども。繰り返さないでほしい」。自死を考えた少女は傘寿を前に心から願う。

(2023年4月3日朝刊掲載)

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