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連載・特集

広島サミット 復興 あのとき <3> マツダ

「バタンコ」物流けん引

 原爆投下翌月の1945年9月、東洋工業(現マツダ)の幹部が福岡県久留米市の工場を訪ねた。資材不足の中、三輪トラックのタイヤを仕入れる算段をつけるためだった。

 「汽車に乗って取りに行った」。マツダ元取締役の羽山信宏さん(75)=広島市南区=は、技術者だった父の故恒義さんの言葉を覚えている。当時を語るのはまれだったが、酔うと記憶が口を突いて出た。「広島を支えた車。誇らしかったんでしょうね」

 31年に発売した三輪トラックは、マツダが最初に造った自動車だ。後輪が左右に二つ、前輪が一つ。自社開発の空冷単気筒エンジンを積み、荷物を満載しても狭い砂利道を走りやすかった。「ボールト一本、ナット一個でさえも全部東洋工業会社自身が厳密な試験の上製作します」。当時のカタログの文章には、自動車メーカーとして走り始めた自負がにじむ。

 戦時下では軍用の側車付き二輪車や小銃を手がけた。あの日、東洋工業は建物疎開の作業などをしていた従業員119人を亡くした。当時入社7年目で20歳だった恒義さんは陸軍に入隊し、第二総軍司令部(現東区)で暗号の解読に従事していて被爆。何度も気絶しながら歩いて近くの二葉山にたどり着き、ガラスが突き刺さった傷の手当てを受けた。

 工場は今の広島県府中町にあり、設備の被害は限定的だったが、資材がない。三輪トラックの生産再開は、原爆投下4カ月後の45年12月になった。「まず10台、それから何台と少しずつ造ったようだ」。羽山さんは伝え聞く。

 物資を運び、復興を支える三輪トラックは重宝された。代替わりに合わせて、かつての県産業奨励館、今の原爆ドーム(現中区)を背景に撮影された写真がマツダに残る。窓や屋根を備えるようになるにつれ、旧市民球場などが立つ周辺の街並みも発展していく様子が分かる。

 羽山さんは74年、東洋工業に入社した。独自技術のロータリーエンジンの研究開発に没頭。小型軽量で、四輪車に参入するきっかけになったエンジンだ。環境性能を磨き、存廃の危機を何度も乗り越えてきた。発電機としても使え、今やマツダの電動化戦略の一翼を担う。

 会社の後輩となった羽山さんに、恒義さんは「俺はお前みたいに楽をしてないよ」と、時に厳しい言葉を投げかけた。「広島や世の中を良くする、その覚悟を持って仕事をしろと言いたかったのでしょう」とおもんぱかる。会社の戦後の原点ともなった三輪トラックは、マツダミュージアム(南区)で最初に来館者を出迎えている。(桑田勇樹)

 マツダは1931年10月、マツダ号DA型の生産を始めた。三輪トラックは「オート三輪」「バタンコ」とも呼ばれ、四輪車が普及するまで未舗装路の物流を担った。32年に現在の中国へ初めて輸出。36年には、鹿児島から東京までを三輪トラックで走破する宣伝キャラバン隊を組み、全国に性能をアピールした。

 38~49年に販売されたGA型は、運転席の正面、計器類の手前にシフトレバーを配する珍しい構造を持つ。ハンドルを切りながら左右どちらの手でも操作しやすい。戦前戦後を通じ、日常生活を支えた理由をしのばせる。

(2023年4月2日朝刊掲載)

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