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連載・特集

広島サミット 復興 あのとき <2> お好み焼き

屋台発のソウルフード

 「桃太郎」「ちいちゃん」「へんくつや」―。1965年8月、広島市中心部の西新天地広場(現中区)には、お好み焼きの屋台がひしめいていた。「麗ちゃん」もその一角に。「隣の店の娘さんに生地を焼いてもらったり、野菜を融通しあったりしてね。みんな仲が良かった」。両親が開いた店の名の由来になった山城レイ子さん(84)=東広島市=は懐かしむ。

 広島のソウルフード、お好み焼き。被爆後の焼け跡で営業を始めた「一銭洋食」の屋台が発祥とされる。水で溶いた小麦粉をクレープ状に焼き、大量のキャベツや豚肉、そばを挟んで蒸し焼きにした後、つぶした卵を重ね、甘みのあるどろっとしたソースをかける。戦後復興とともに、今の形が出来上がった。

 50年代に入ると、東新天地広場(現中区)周辺に百貨店の広島天満屋が開業。映画館や飲食店が並び、原爆の痕跡はほとんどなくなっていた。現在はJR広島駅(南区)の商業施設ekie(エキエ)にある麗ちゃんは、東広島市出身の山城信登さん(87年に71歳で死去)と妻の年江さん(2005年に86歳で死去)が生計を立てるため、55年ごろ東新天地広場で開店。その後、西新天地へ移った。

 当初は甘酒やおでんを売っていたが、57年ごろ、はやりのお好み焼きに参入したという。練炭を二つ並べた鉄板の上で焼いた。具材はかつお節や天かすに始まり、「おなかが太る」とそば入りが定着した。レイ子さんの妹で屋台を手伝った沖田京子さん(82)=東広島市=は「夜遅くまで、会社帰りの人やタクシー運転手、新聞社の人たちが来てにぎやかだった」と盛況ぶりを思い起こす。

 被爆後の広島でお好み焼きがなぜ広まったのか。その歴史に詳しい広島経済大経営学部長の細井謙一教授(55)は「米国から届いた救援物資で、急速に小麦粉が普及したことが大きい」とみる。ソースメーカー、製麺業、鉄板業など関連の地場産業も相次ぎ育った。沖田さんは「父がソース業者に、もっとリンゴやタマネギを入れた方がいいとアドバイスしていた」と振り返る。

 屋台の無許可営業や深夜の騒音が深刻化したため、広島市は65年10月に西新天地広場の使用を禁止。屋台を一掃した。ただ、多くの店は近くにできた「お好み村」や、広島駅ビルへ移り、のれんを守った。郊外でも民家を改装した店が増加。75年の広島東洋カープ初優勝や、市によるお好み村への修学旅行誘致を機に「広島風」のお好み焼きは全国に知れ渡った。

 麗ちゃんの3代目、柏田英紀会長(67)は「復興期からみんなが試行錯誤を重ねてたどり着いた歴史とともに、世界へ広まればうれしい」。5月にある先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)へ、そう期待を寄せる。(桑島美帆)

 広島のお好み焼き店は「ちゃん」が付く店名が目立つ。「原爆や戦争で夫を失った女性が焼け跡で始めた」「戦地から夫が戻ったときに分かりやすいように」という説は、自治体や旅行会社がお好み焼きを「復興の象徴」として広める中で生まれた可能性がある。実際は、娘の名前や男性店主の愛称を店名にしたケースが多いようだ。

 広島県内にはピーク時にお好み焼き店が約2千店あったとされるが、店主の高齢化や新型コロナウイルス禍で減り現在は1300店余りとみられる。総務省の2018年の集計では、人口千人当たりの「お好み焼・焼きそば・たこ焼店」の数は都道府県別で、広島県が全国1位だ。

(2023年4月1日朝刊掲載)

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