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連載・特集

広島サミット 復興 あのとき <5> シュモー住宅

平和願う善意 世界から

 米軍の広島市への原爆投下で爆心地から約2キロ以内の街は焼き尽くされ、多くの市民が住まいを失った。1950年代に入っても1万戸以上の住宅が不足していたとされる。その頃、家を失った人のために住宅を造ろうと手弁当で市内を訪れた米国人たちがいた。

 中心は、米国の森林学者で平和活動家、フロイド・シュモーさん(2001年に105歳で死去)。原爆投下に心を痛め、寄付を募って「広島の家」を現地に建てることを計画した。

 「(建設は)原爆を使用したことに対して遺憾の意を表している何百何千という人々の善意の表明である」(シュモーさんの手記『日本印象記』)。49年、米国から仲間3人とガラスやくぎを携えて市内を訪れ、皆実町(現南区)に長屋2棟を建設した。50~52年にも江波地区(現中区)に住宅10棟と集会所を建てた。

 「家の中にトイレ、お風呂、お茶の間もあると、跳び上がって喜びました」。小田部三恵子さん(84)=大阪府茨木市=は、江波の新居を訪れた日が今も忘れられない。小学6年生だった50年に、両親と姉、妹、弟との6人で入った。

 戦時中、小田部さん一家は吉島羽衣町(現中区)で生活。原爆投下時は広島県北に農家の納屋を借りて疎開しており、被爆を免れた。しかし家は原爆で崩れ落ち、家族の相次ぐ体調不良が重なって、戦後も戻れなかった。そのうち、父が病気を患って市内の病院に入院。奉仕活動に訪れたシュモーさんから住宅を紹介されたという。

 小田部さんは、シャツ1枚のシュモーさんが、近所に新築する住宅の柱を運ぶ光景を覚えている。「信念を持って、やることをやり通す姿勢を感じました」。父は、シュモーさんの思いを名前とともに残すべきだと考え、手紙の差出人住所に必ず「シュモー住宅」と書いた。

 住宅建設には世界中から3万ドルを超える寄付が集まり、53年までに15棟21戸が市内に建てられた。米国から黒人や中国系米国人を含む計17人が作業に参加し、広島や東京の日本人の若者も加わった。建設現場には、英文の看板でこう掲げた。「家を建てることによってお互いを理解し合い、平和が訪れますように」

 15棟のうち唯一現存している江波地区の集会所は11年前、原爆資料館(中区)の付属展示施設「シュモーハウス」としてオープン。市民団体「シュモーに学ぶ会」のメンバーが観光客たちにガイドをしている。

 代表の西村宏子さん(65)=中区=は昨年、欧州の観光客から「(ロシアに侵攻された)ウクライナがこんな時だから、ここに来られてうれしい」と感想を聞いた。「分断や対立が激しさを増す今、さまざまな違いを超えて平和の構築を目指したシュモーさんの思いは一層心に響く。広島を訪れる方に、その思いを持ち帰ってほしい」と願う。(編集委員・水川恭輔)

 原爆投下で甚大な被害を受けた広島への支援に力を尽くした外国人は、ほかにもいた。被爆翌月の1945年9月、赤十字国際委員会(ICRC、本部・スイス)の駐日主席代表、故マルセル・ジュノー博士は約15トンの医薬品を広島に届け、救護所で被爆者を治療した。

 米国人ジャーナリストの故ノーマン・カズンズさんは49年、原爆孤児の「精神養子運動」を提唱。米国市民が養育費などを送り、孤児の生活を支援した。2人は、平和記念公園(広島市中区)の南側の緑地にそれぞれ記念碑が建てられている。

(2023年4月4日朝刊掲載)

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