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社説・コラム

『潮流』 大江さんからの花束

■編集委員 道面雅量

 先月、88歳での訃報が届いたノーベル文学賞作家の大江健三郎さんに、直接お会いしたことが1度ある。2014年に広島市内で講演された際、控室にお邪魔したのだった。

 ごく短時間のはずが、私はふとした弾みで、プライベートな逸話を大江さんにお伝えした。私がその3年前に結婚した妻と最初に知り合ったのは、当時赴任していた東京での、小さな読書会だったこと。大江さんが文芸誌「すばる」(02年10月号)で熱情を込めて紹介していた中野重治の短編「五勺(ごしゃく)の酒」を、私の提案でそこで読んだこと。

 「参加者の評判がとてもよく、私の評価も上がった。大江さんの文章のおかげで、私は結婚できたようなもの」。そう言うと大江さんは、あの人懐っこい笑顔になり、講演後にステージで受け取っていた花束を「これは君に。結婚おめでとうございます」と、ちゃめっ気たっぷりに手渡してくださった。忘れられない思い出だ。

 控室には、広島文学資料保全の会(土屋時子代表)の方々に同行することで潜り込ませてもらった。同会は、被爆作家の直筆文書について国連教育科学文化機関(ユネスコ)の記憶遺産登録に向けた活動を始めたタイミングだった。

 登録を目指す資料の一つ、原民喜の原爆被災時の手帳の実物を、民喜のおいの時彦さんが持参していた。大江さんは10年の本紙に載ったインタビューに、民喜の短編に触れたことが「僕の文学の出発点」と語っており、活動への理解協力を願って見てもらおうという趣旨だった。

 手帳を前にした大江さんは、自ら取り出したハンカチで口を覆い、厳粛な表情で丁重にページをめくった。敬意に満ちたその姿も忘れられない。作家としての自分を磨く「硬いヤスリ」に例えた、ヒロシマへの敬意だったように思う。

(2023年4月6日朝刊掲載)

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