×

連載・特集

広島サミット 復興 あのとき <7> 基町

軍拠点から住宅群に

 「きれいな家で、暮らしやすかった。私以上に母はうれしかったでしょう。住んでいた広島に戻れて」。広島市中区の友田道枝さん(83)は原爆投下3年後、基町に建った公設の木造住宅に入居できた時の家族の喜びようを思い起こす。

 6歳の時に爆心地から1・4キロの上柳町(現中区)の自宅で被爆。牛田山に避難し、数日を過ごした。「もう死のうかね」。家を失い、憔悴(しょうすい)した母が山中でつぶやいた一言が今も脳裏に残る。母は戦後、仕事を求めて今の廿日市市に移ったが、基町の住宅を紹介してもらうと、一家5人で住み慣れた広島に戻った。

 5軒長屋の友田さん方は6畳と4畳半の2間。トイレはあったが、風呂はなく、銭湯へ通った。「友達がたくさんできてね」。友田さんは結婚で一時基町を離れたが、子どもの小学校進学時に戻り、今も市営基町高層アパートで暮らす。

 広島発祥の「基(もとい)の地」を意味する広島城一帯の基町は明治以降、軍の部隊や施設が集まり「軍都広島」の中心地だった。爆心地から1キロほどで、原爆により壊滅。市は1946年、住宅不足への応急策として住宅を建て始めた。公園用地にする計画がある中、広島県なども加わり、49年までに1800戸余りの公設住宅が並んだ。

 そこへは友田さんのように原爆で家をなくした被爆者だけでなく、引き揚げ者たちも入った。市営基町中層アパートに住む中村和正さん(81)は韓国ソウルで生まれ、戦後すぐに親類を頼って家族6人で広島へ。46年秋に基町の10軒長屋に住み始めた。近所にはケロイドのある被爆者や日雇いで働く人も。「家にはいろんな人が集まってきた。金はないのににぎやかだった」

 一方、広島に人が戻る中、公設住宅に入れない人たちは各地の河川敷や空き地にバラック住宅を建てて住んだ。基町の太田川河岸には区画整理で行き場を失った人が集まり、「原爆スラム」と呼ばれた。

 今は市営基町高層アパートに住むリサイクル業の伊藤豊さん(75)も太田川河岸に自宅があった。4歳だった52年、知人を頼って一家で秋田から広島に移住。両親は鉄くずや古紙を買い上げる廃品回収の問屋を始め、戦後の復興に合わせて軌道に乗せた。伊藤さんも中学生で手伝いを始め、高校生で大型トラックの免許を取得。「親が喜び、家族が腹いっぱい食べられる。それがうれしかった」

 ただ、行政は密集した老朽住宅やスラムの解消へ再開発を決断。市営、県営の中層アパートに続き高層アパートを建てて居住者の移転を進め、78年、基町再開発事業の完成を宣言した。

 今、市中央公園となった公設住宅跡でサッカースタジアム建設が進み、河岸には桜並木が整う。「広島は見事に復興したという、きれい事にはしてほしくない」と中村さん。戦後の基町の歩みを消さないよう、語り継いでいる。(宮野史康)

 今の広島市中区基町の太田川河岸にあった「原爆スラム」では度々、火災が発生した。各地の土地区画整理事業で立ち退いた住民が流れ込むなどして、住宅が密集。道が狭く、消火活動が難しかったという。1961~76年の15年間には、14件で403戸が焼失した。うち67年7月の大火では149戸を焼き、高層アパート建設への一つの転機となった。

 現在は市営基町高層アパートに住む李朝子さん(78)は、5年ほど暮らした河岸で火事を目撃した。「家に火が移らないか、走って見に行った。そしたらもう竜巻のようだった」と振り返る。

(2023年4月6日朝刊掲載)

年別アーカイブ