×

連載・特集

闇から光へ 趙根在、療養所の記録 <上> ハンセン病 生きた証し写す

 1960~70年代を中心に、瀬戸内市の長島愛生園、邑久(おく)光明園など全国各地のハンセン病療養所を巡り、隔離政策で収容された人々の貴重な写真記録を残した人物がいた。愛知県に生まれ、60代前半と思われる97年に亡くなった趙根在(チョウ・グンジェ)。作品は東京都東村山市の国立ハンセン病資料館の展示に一部が活用されているものの、知名度は乏しい。現在、埼玉県東松山市の原爆の図丸木美術館で、その仕事を再評価する画期的な企画展「趙根在 地底の闇、地上の光」(5月7日まで)が開かれている。中国地方とのゆかりに着目しつつ、知られざる写真家の創作をたどる。(編集委員・道面雅量)

知られざる写真家 創作と人生

 愛生園、光明園のある長島に、入所者の長年の運動によって本土とをつなぐ邑久長島大橋が架かったのは88年。「人間回復の橋」とも呼ばれた。入所者にとって、わずか30メートル先の対岸がどれほど遠かったか。趙が70年に長島で撮った「出航を見送る」の、両手を高く上げた後ろ姿が物語る。初公開を含む約180点の出展作の一つだ。

 不自由な指に代え、ピンセットでたばこを吸う人。視力と指先の感覚を失い、舌で点字を読む人。頭に巻いた包帯の下で、鋭い眼光が輝く病衣の詩人…。入所者の「撮られる」ことへの抵抗感が、社会からの偏見、差別に即して激しかったと思われる時代にもかかわらず、近距離で正面から捉えた写真が多い。深い信頼関係がうかがえる。

 療養所の詩人たちでつくる「らい詩人集団」が刊行した詩誌「らい」の18号(71年3月)に、愛生園での座談会に参加した趙の言葉が残されている。「写真というのは写す人間のものじゃないと思っているんですよ。逆にいったらあれはね、写される人間のものなんですよ」

 趙が写真家として生前に出した著作は、栗生楽泉園(群馬県)に暮らし、らい詩人集団の同人だった谺(こだま)雄二の詩に自身の写真を合わせた「ライは長い旅だから」(81年)の1冊だけ。しかし、詩歌や評論など文芸活動に励む入所者から、自著に載せる写真を望まれることは少なくなかった。いくつかの掲載本が確認できる。

 趙は、ともに朝鮮半島出身の父母の間に、現在の愛知県大府市で9人きょうだいの末子として生まれた。生年は遺族らの認識によると33年だが、複数の情報が混在する。父が病気を患い、本人の回想によると「中学3年になった年から炭鉱で働きだした」。労働基準法の年齢制限に触れるが、「命自分持ち(事故の補償を要求しないこと)」を条件に働いたという。

 本展を企画した丸木美術館の岡村幸宣(ゆきのり)学芸員は「自分の生年すら定かではない家庭環境に生き、地底の闇の中で危険と隣り合わせの仕事をする日々は、地上の光への強い脱出願望につながった」とみる。

 趙はやがて、在日朝鮮人の歌舞団の照明係となって全国を巡演。旅の途中、熊本県にある菊池恵楓園を訪れたことを機にハンセン病に関心を寄せる。療養所に、貧困で病を悪化させた朝鮮人同胞が多かったことは大きいだろう。北は青森から南は鹿児島まで各地の療養所に足を運び、約2万点の写真を残した。

 出展作の「監房内の文字」(70年)は、逃走を試みるなど反抗的な入所者を懲罰的に閉じ込めた愛生園の施設の内部。53年まで運用されたという。壁には、解放の日を指折り数えるようなカレンダー、住所や名前らしき文字が残る。暗闇の中、生きた証しを立てるように刻んだ字であったろう。本展もまた、高度経済成長期の日本でこのような記録を重ねた写真家と、彼が撮った人々が確かにいたことの証しを立てている。

ハンセン病
 ノルウェーの医師ハンセンが発見した「らい菌」による感染症。手足などの末梢(まっしょう)神経がまひし、感覚がなくなったり、体の一部が変形したりして障害が残ることもあるが、感染力や発病力は極めて弱い。日本では1931年に「癩(らい)予防法」が制定され、強制的な隔離政策が進められた。特効薬が開発された後の53年にできた「らい予防法」でも隔離政策は継続され、96年の廃止まで続いた。

(2023年4月7日朝刊掲載)

年別アーカイブ