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連載・特集

広島サミット 復興 あのとき <8> 暴力団追放運動

官民結束 「怖い街」返上

 戦後、一面が焼け野原になった広島の街。そこに闇市が広がり、利権を巡って暴力団が幅を利かせるようになった。1946年から71年までの間、3度にわたる抗争が発生する。組関係の事務所にダイナマイトが投げ込まれるなど凶悪な事件が相次ぎ、市民も巻き添えとなった。死者37人、負傷者66人。激しい抗争は後に、映画「仁義なき戦い」の題材にもなった。

 「暴力団は映画の話だと思っていた。しかし身近で市民を怖がらせる存在だった」。広島市の会社社長池田仁志さん(83)は、転職を機に広島に移り住んだ半世紀前を振り返る。市暴力追放監視防犯連合会の元会長だ。

 70年代前半、市内で飲食店などを展開する会社に入り、役員として店舗営業の総括を任された。第3次抗争が終わった直後だった。

 店内で入れ墨を見せた組員が騒ぎ立てた。店舗改修の際に金を要求され、盆正月は高額な花や飾り物の購入を何度も迫られた。同業者も同じ悩みを抱え、「みかじめ料の要求を断り、刃物を突き付けられた」との話を聞いた。逆に暴力団との密接な関係を誇示する業者もいた。

 「正直怖かった。だけど要求に応じて資金源になることは許せなかった」。池田さんは屈しなかった。拡声器を使って自宅前で大声を出されるなどの嫌がらせが続いたが、一度も要求を受け入れなかった。他の会社経営者も巻き込み、暴力団の不当要求に「ノー」を突き付けた。

 市民の地道な闘いは暴力団排除の機運を高めた。87年設立の暴力追放広島県民会議は暴力団対策法(暴対法)が施行された92年、被害者支援などに取り組む全国初の暴力追放運動推進センターに。2000年代に入ると、公共工事に対する不当介入の通報を義務付けるなど「広島方式」の制度も生まれ、各地に広がった。

 地元の広島弁護士会のメンバーも後押しした。県暴力団排除条例(11年施行)の検討段階で、法的な知識を生かして県や県警の作業を支えた。指定暴力団共政会(本拠・広島市)のトップにみかじめ料の返還を求めた訴訟などでは市民に代わって矢面に立ち、法廷での闘いを続けた。身の安全が危ぶまれ、県警の「保護対象」になる人も出た。

 日弁連民事介入暴力対策委員会の元委員長で、県民会議理事長を務める中井克洋弁護士(61)は言う。「広島は全国に先駆け、官民が組織的に暴力団排除に注力してきた。一人一人の勇気が『怖い街』のイメージを変えた」。意識は企業にも広がり、官民の強固な連携が対暴力団の大きな強みとなっている。

 県内では近年、目立った抗争は起きていない。それでも池田さんは「決して隙を見せちゃいけん」と力を込める。「業界を超えた団結、運動を継続し、闘い続けることが肝心だ」(暴力団取材班)

 戦後の広島では暴力団が市民生活を脅かす事件が相次いで発生した。1985年、暴力追放キャンペーンを展開していた中国新聞社社長宅が銃撃された。88年には、JR広島駅で対立する暴力団組織が銃撃戦を繰り広げ、乗客3人が重軽傷を負った。

 2000年代に入り、暴力団が建設業界に介入して公共事業を資金源としている実態が表面化。広島県と県警は03年、公共工事に対する不当介入の通報を義務付ける制度を全国で初めて導入した。

 県内では現在、指定暴力団3団体が活動する。県警によると、県内の構成員数は暴対法施行前の91年は約630人。取り締まりや規制強化の成果もあり、22年には約200人に減少した。

(2023年4月7日朝刊掲載)

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