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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 豊永恵三郎さん―横たわる母 顔黒く腫れ

豊永恵三郎(とよながけいさぶろう)さん(87)=広島市安芸区

証言活動40年 「平和のバトン受け取って」

 豊永恵三郎さんは、高校教員として働きながら被爆体験の証言活動を始め、広島を訪れる多くの修学旅行生たちに語ってきました。二つのがんを患(わずら)い、中断しながらも約40年。子どもたちに「私からの平和のバトンを受け取って」と呼びかけます。

 父親が41歳で病死し、母艶子(つやこ)さんと弟博之(ひろゆき)さんの3人で広島駅に近い尾長町(現広島市東区)に暮らしていました。1945年の春、戦時中の国の方針で、爆撃(ばくげき)に備(そな)えて児童を農村部へ移動させておく「学童疎開(がくどうそかい)」が広島でも始まりました。9歳で尾長国民学校(現尾長小)3年生だった豊永さんは広島県府中町の父方の祖父母の家に「縁故疎開(えんこそかい)」しましたが、寂(さみ)しさが募(つの)り、すぐに自宅へ戻(もど)ってしまいました。

 あの日の朝、中耳炎(ちゅうじえん)の治療(ちりょう)で学校を休み、自宅から坂町の鍼灸院(しんきゅういん)に1人で出かけました。列車で呉線の坂駅(現坂町)に着いたのが午前8時過ぎ。歩いていると後ろからごう音が聞こえました。とっさに近くの軒下(のきした)へ逃(に)げ込(こ)みました。広島市の方角の空にきのこ雲が立ち上っていくのが見えました。

 母親と当時3歳の弟は、町内会で比治山橋西側の昭和町(現中区)へ建物疎開作業に出ていました。心配になり坂駅から広島市内へ戻ろうとしましたが、列車は来ません。ようやく到着(とうちゃく)し、車内から出てきた人たちの姿に驚(おどろ)きました。「皮膚(ひふ)は手足から垂(た)れ下がり、髪(かみ)は逆立って男女の区別がつきませんでした」

 列車は海田市駅で停止。徒歩で自宅を目指しました。市中心部の方角は、空が火災で真っ赤に染(そ)まっています。船越町(現安芸区)の親類宅に避難(ひなん)し、翌日から祖父、いとこと一緒に母と弟を捜しました。

 爆心地から約2・5キロの自宅は全焼しました。二葉山で2人と再会できたのは原爆投下から3日後。母親は大やけどを負い、地面に寝かされていました。顔は黒く腫(は)れ上がり、着物はぼろぼろ。「そばに無傷の弟がいなければ、母親だと分からなかった」。親類らの懸命(けんめい)な手当てのかいあって少しずつ回復し、戦後は船越町に居を構(かま)えました。

 豊永さんは広島大を卒業後、私立高の教員になりました。知り合いの教員に頼まれて83年、修学旅行で広島を訪(おとず)れた大阪の高校生たちに被爆体験を初めて語りました。この時、被爆者の友人らに協力を求めると、15人が集まりました。

 帰り際に「これからもたくさんの子どもたちに話してください」と声をかけてくれた生徒に背中を押され、翌年には一緒に証言した13人と「ヒロシマを語る会」を結成。会員の高齢化で2001年に解散しましたが、豊永さん自身は今も証言を続けています。

 海外で暮らす「在外被爆者」の支援にも長年取り組んでいます。日本が植民地支配した朝鮮半島から、貧しい生活の中で、あるいは労働を強(し)いられて広島に渡ってきた多くの人が被爆しました。戦後に帰還(きかん)してからも病気や貧困に苦しみましたが、日本政府と韓国政府は長い間、放置も同然でした。豊永さんは支援団体をつくり、韓国の被爆者と一緒に援護(えんご)を訴えました。「被爆者はどこにいても被爆者。存在を忘れられていた人たちを支えたかった」

 仲間の被爆者は、高齢や病気で毎年亡くなっています。自分の体験を多くの子どもたちに伝える活動に、なおさら力が入ります。耳を傾けてくれる人が「継承者(けいしょうしゃ)」となり、輪を広げることを願っています。(新山京子)

私たち10代の感想

自分自身と結びつける

 豊永さんは、自らと家族の被爆体験を修学旅行生に語る活動をしています。被爆証言を聞く時は、自分自身が抱(かか)える悩みなどのさまざまな思いと結びつけながら、当時の豊永さんが体験したことや感じたことを想像してほしいと話していました。これから私も取材をして記事を書く時は、そうして相手の思いを感じ取るようにしたいと思いました。(高1森美涼)

教育が与える影響 驚き

 9歳だった豊永さんは、坂町できのこ雲を見上げた時「ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相の顔が見えたような気がした」そうです。「鬼畜米英(きちくべいえい)」と教えられた軍国主義の教育が影響(えいきょう)していると聞いて驚(おどろ)きました。戦争中に持っていた憎(にく)しみが、平和の大切さを伝えるまでになった豊永さんの感情の変化についても知りたいと思いました。(高1谷村咲蕾)

【ジュニアライターの感想~豊永さんの証言を聞いて~】

 被爆直後のお話では周りの人からの援助がどれだけ心強く、大切かがわかりました。また、原爆について伝えることに自信がない中でも、高校生に伝えたり、在韓被爆者の支援を行ったりした行動から、豊永さんの戦争のない、核兵器のない日本を作りたいという思いがとても強く感じられました。私たちも豊永さんを見習って、被爆体験を伝承ではなく、継承していかなければならないとあらためて思いました。(中3山代夏葵)

 豊永さんが人生で初めて被爆証言をした時、証言を聞いた高校生が「こんな話は初めて聞いた。これからも多くの人に伝えていってほしい」と泣きながら言ったそうです。この言葉は、豊永さんが被爆体験を発信してきた原動力の一つだと思います。私も取材を通して何人かの被爆者と関わり、それぞれが全く違う人生を懸命に生きてこられたことを知りました。豊永さんが「1対1の被爆者との付き合いが大事」と言われていたように、これからも証言してくださる方と真摯に向き合いたいです。そして、事実や感じたことを私自身の言葉で伝え、読んだ人、聞いた人の心を動かしたいです。(高1藤原花凛)

 私も豊永さんと同じように弟がいるので、証言を自分ごととして考えながら聞くことができました。坂町できのこ雲を見たときはとても不安になったと思います。証言を自分ごととして聞いていくことの大切さを感じました。また、豊永さんのこれまでの活動を知って、豊永さんの行動力がとても印象に残りました。被爆者手帳の証人を見つけることも難しくなっていることを知り、被爆者への支援の必要性を感じました。豊永さんが話していたように、私もこれからは自分の体験と合わせながら証言を聞いていきたいと思いました。 (高1中野愛実)

 ◆「記憶を受け継ぐ」のこれまでの記事はヒロシマ平和メディアセンターのウェブサイトで読むことができます。また、孫世代に被爆体験を語ってくださる人を募集しています。☎082(236)2801。

(2023年4月10日朝刊掲載)

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