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社説・コラム

『想』 大牟田聡(おおむたさとる) 原民喜と「世界の記憶」

 15歳の夏、新聞記者だった父親に「読んでみ」と原民喜全集を渡された。原民喜(1905~51年)は、原爆投下直後を生々しい筆致で書いた小説「夏の花」で知られる。ところが、私が魅せられたのは、それまで知らなかった彼の戦前の作品だった。繊細で生真面目で、いつもおどおどしていながら時としてユーモラスな数々の短編に心を引かれたのだ。大学卒業後、私は大阪の放送局に就職し、広島を離れたが、民喜の文学は常に私とともにあった。

 2001年、民喜の没後50年を機に、広島市中区の旧日銀広島支店で回顧展が開催された。この年の秋、71歳で他界した父が仲間とともに企画したものだった。父は民喜を広島で再評価しようという「広島花幻忌の会」を立ち上げていた。

 「花幻忌」とは民喜の詩「碑銘」のなかの「一輪の花の幻」という詩句からつけられた民喜の命日だ。亡くなった父の代理というわけではないが、民喜の文学を愛する私も花幻忌の会会員として、今も時折イベントに参加している。

 ところで、民喜の「夏の花」が、避難中に鉛筆で走り書きしたメモに基づいていることはよく知られているが、いま「広島文学資料保全の会」が、そのメモをはじめ、峠三吉や栗原貞子、大田洋子の自筆原稿などを、ユネスコの「世界の記憶」に登録すべく活動している。

 「核抑止」という机上の空論がリアルに語られる現代にあって、彼らの文学は「核兵器」が「大量虐殺兵器」であることを突きつけてくる。被爆直後、作家や詩人たちがつづった、文字通り血のにじむような原稿や資料を、「世界の記憶」に留めることは、広島のみならず、この国の責務ではないのか。

 民喜の文学は原爆投下の瞬間から大きく変わり、被爆6年後には自死を選んだ。

 彼がのこした作品や資料を目の当たりにするとき、民喜もまた虐殺された一人であったことを痛感する。世界はその事実を忘れてはならない、と思う。 (毎日放送監査役・広島花幻忌の会会員)

(2023年4月12日朝刊セレクト掲載)

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