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連載・特集

世界遺産登録25年 原爆ドーム 被爆の証人 守る責任 技術者、使命感で奮闘

 ドームを覆うように張り巡らされた足場、ひび割れた壁を固める樹脂の注入…。広島市佐伯区に住む二口とみゑさん(71)は、1967年に行われた原爆ドームの第1回保存工事の写真アルバムを大切に保管している。当時、現場責任者を務めた父、正次郎さん(2019年に98歳で死去)から受け継いだ。

 市議会が「保存は後世への義務」と決議して存廃議論が決着したのは、被爆21年後の66年。長年放置されていたドームの壁は多くのひび割れがあり、鳥が巣をつくっていた。市から保存工事を請け負った清水建設広島支店の建築士だった正次郎さんは当初、担当になるのを固辞した。

 「壁はちょっと手で触ったぐらいでぐらぐらする状態で、『とてもできない』と」。とみゑさんは父の戸惑いを振り返る。だが、世界平和記念聖堂(中区)の建設工事などにも関わった経験豊かな正次郎さんの背中を職場や家族が押した。さまざまな技術者が集まって67年4月に着工した。

 まず大変だったのが、足場の設置。ぐらつく壁は支えにできず、壁の両側から「もち焼き網」を挟み込むように組んだ。れんが壁の形をできる限り変えずに補強するため、内部にエポキシ樹脂接着剤を注入。当時の最先端技術で、業者が試験を重ねて適した樹脂の配合を探った。

 れんが一つ落とさないように―。正次郎さんは毎朝の朝礼で慎重な作業を呼び掛けた。当時大学生だったとみゑさんは現場の父に弁当を届けた。工事は67年の原爆の日の前日、完了。とみゑさんの亡き母ツネさんは、工事を終えた父に「ドームで亡くなられた方が守ってくれたんじゃないの」と声を掛けたという。

 正次郎さんは第2回保存工事でも技術指導し、その後も視察に訪れた。現在進められている5回目の工事では、ドーム部分などの鋼材を被爆当時に近いとされる焦げ茶色に塗り直し、壁の接ぎ目などを補修する。

 とみゑさんは20年1月、保存の歴史を伝える一助にと、父が残したドーム関係の写真約300枚のデータを原爆資料館に寄贈した。「ドームが物言わぬ証人として『二度と繰り返してはならない』と伝え続けてほしい」と願う。(水川恭輔)

「16歳」の声 保存運動生む

 「原爆の惨事を思い出したくない」。原爆ドームは戦後、市民の一部に解体を求める声が根強かった。補修して積極的に残す方針も決まっていなかった1960年8月、平和団体「広島折鶴(おりづる)の会」の中高生たちが保存を求める署名と費用の募金活動を開始。世論は次第に保存へと傾いた。

 子どもたちを動かしたのが、1歳で被爆した楮山(かじやま)ヒロ子さんの日記だった。高校1年だった同年3月、急性白血病のため入院、翌月16歳で亡くなった。前年の8月6日、こんな思いをつづっている。「あの痛々しい産業奨励館だけがいつまでも恐るべき原爆を世に訴えてくれるだろう」―。

 「ドームが残されるきっかけの一つになったのに、あまり知られていないのが残念で」。楮山さんと府中中(府中町)で同級生だった寺田正弘さん(77)=安佐南区=たちは2019年、生涯をまとめた「原爆ドームと楮山ヒロ子」を出版した。

 笑顔を絶やさず優しかった人柄などを紹介。母親の悲痛な手記も引いた。亡くなる約1カ月前、顔が青く気分が悪そうでも「試験があるから」と家で勉強を続けていたが、やがて入院。歯茎から血を流し「苦しいよ、お母ちゃん」と訴えていたという。

 「ひつぎの中の楮山さんにお母さんが『ええところへ行きんさいよ』と泣きながら声を掛けていました」。同級生の田村純子さん(77)=西区=は葬儀の記憶を証言した。

 寺田さんは「なぜ16歳で死ななければならなかったのか。ドームを訪れる人に考えてもらいたい」。世界遺産に登録された意義をあらためて問い直している。(水川恭輔)

<原爆ドームの歩み>

1915年4月 県物産陳列館が完成
  33年11月 県産業奨励館と改称
  45年8月 原爆投下。ほぼ真下で被爆し大破
  53年11月 県が市にドームを譲与
  60年8月 広島折鶴の会が原爆ドーム保存のための署名と募金活動を開始
  66年7月 市議会が「原爆ドーム保存要望」を全会一致で決議
  67年4月 市が第1回保存工事。8月に完工
  89年10月 第2回保存工事着工
  96年12月 世界遺産登録が決定
2002年10月 第3回保存工事着工
  15年12月 第4回保存工事着工。初の耐震補強
  20年9月 第5回保存工事が着工。21年3月完工予定

紙面編集・和田木健史

(2021年1月1日朝刊掲載)

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