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@ひろしまサミットまで 34日 建物疎開

 米軍が広島に投下した原爆は多くの少年少女の命も奪いました。いまの中高生に当たる旧制中学や高等女学校の生徒が爆心地付近に動員されていたからです。空襲に備え家屋が延焼しないよう取り壊し防火帯を作る「建物疎開」の作業で、その様子を被爆者が原爆の絵に描いています。

 太平洋戦争末期、広島では多くの学徒が建物疎開や軍需工場に駆り出されました。原爆資料館(広島市中区)によると、被爆当時8千人以上が建物疎開に動員され大半が亡くなりました。一帯は現在、平和大通りとして整備されています。周辺の緑地帯には、犠牲になった学徒の名が刻まれた慰霊碑がたくさんあります。(湯浅梨奈)

(2023年4月15日朝刊掲載)

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