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アジミさんが上級顧問退任 ユニタール広島元所長

 国連訓練調査研究所(ユニタール)広島事務所(広島市中区)の初代所長で退任後はユニタール特別上級顧問を務めたナスリーン・アジミさん(64)が3月末で引退した。03年に県の誘致で被爆地に開設された国連機関に赴任してから20年。「広島は古里。これからもつながっていく」と語る。

 アジミさんはユニタールの元ニューヨーク事務所長。広島では、紛争で疲弊した国々の行政官らに研修機会を提供し、復興の担い手を育成する事業に道筋を付けた。09年に広島事務所長を退任後は、被爆樹木の苗木や種を国内外に贈る「グリーン・レガシー・ヒロシマ(GLH)」の活動などにも携わってきた。

 今回、米国に住む母親の世話もあり引退を決めた。近年は新型コロナウイルス禍に加え、アフガニスタンでイスラム主義組織タリバンが政権を掌握したため現地との共同事業が停止を強いられるなど、苦境も味わった。それでも「復興を遂げた被爆地からの支援は普遍的な意味を持つ」との思いを強めているという。

 今後、広島と米国を行き来してGLHなどのこれまでの活動を続ける。イラン出身者として祖国での人権弾圧に「声を挙げていく」とも語る。(金崎由美)

アジミさんとの一問一答

  ―引退を決めたきっかけは。
 米国に住む高齢の母と過ごす時間をもっと持とうと思ったことが一番の理由だ。また、2021年8月に(イスラム主義勢力タリバンが政権を握り)アフガ ニスタンが変化したこともの私の中では大きかった。ユニタールは広島からアフガニスタンの若き専門家たちに研修プログラムを提供してきた。私自身は最近、現地の専門家や大学関係者、元ユニタール研修生ら有志とアフガニスタンに植物園をつくる国際的な支援プロジェクトに携わっていた。生態系の維持や種の保存について学び、その重要性を啓発する拠点となる植物園が国内に一つもないのが現状だから。だが関係者の多くは離散してしまっている。彼らの境遇を思うとつらい。

 今年はユニタール広島事務所の開設から20年。私としては無給のインターン時代も含めたキャリアは37年になる。ここで節目とすることにした。

  ―20年前を振り返って印象に残っていることは。
 ユニタール広島事務所を正式に開設し、原爆ドー ムに面した商工会議所のビル屋上に国連旗を掲げた2003年8月のことは忘れられない。手伝ってくれた警備員が平和記念公園の方角を見つめて「私の母と祖母があそこにいます」と語ってくれた。被爆地に国連機関を置くことの意味を実感し、胸がいっぱいになった。

 アフガニスタンはもちろん、南スーダンやイラクなどからの研修生にとって、広島は復興への希望となる都市だ。二国間関係が決して良くはない国々の出身者たちが共に研修を受けることもある。それでも、一緒に原爆資料館を見学し、平和記念公園を歩く時、犠牲者を悼む思いや復興への意思は重なり合う。広島はそんな力を持つ地なのだ。

 ユニタールは「平和維持」「核軍縮・不拡散」をはじめとする多様な課題について研修プログラムやラウンドテーブルなどを開催してきた。世界遺産の管理や保存を学んでもらう研修も、広島ならではの開催意義がある。文化財の保全は、平和であってこそできる。しかも、広島は原爆ドームと宮島という二つの世界遺産がある地だ。もちろん、このような活動の充実も、県をはじめとする地元広島からの支援と、現在の隈元美穂子所長や私と一緒に働いてくれたスタッフ皆の努力があってこそ。心から感謝している。

  ―「グリーン・レガシー・ヒロシマ(GLH)」の共同創設者として、被爆樹木の種や苗を世界に広める活動にも携わってきましたね。
 私にとって生涯を懸けた取り組みだ。現在、40カ国に120以上の パートナーを持っている。GLHを通じて私は、国際機関に所属する者としてだけでなく、草の根レベルでも活動することの大切さを学んだ。共同創設者となったNPO法人ANT-Hiroshimaの渡部朋子理事長ら多様な市民と活動できたことは私にとって人生の宝物。広島は私の古里であり続ける。広島で過ごす時間は今よりも限られてくるが、これからも広島と米国を行き来しながら活動を続ける。

  ―今後、新たに力を入れることは。
 私の出身国イランは、国民の多様性、天然資源、そして教育 熱心な国民性を備えた国だ。1960~70年代初頭は、中東における日本や韓国のような国になると期待されていたが、イラン・イスラム革命以来圧政が44年間続いている。今、国内外の数百万人がより公正で豊かで平和な国 への変化を求め、結集している。イランの同胞のためにできる限りのことをするつもりだ。

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