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連載・特集

『生きて』 元プロ野球選手 張本勲さん(1940年~) <2> 原点

4歳の時 右手にやけど

  ≪1940年6月19日、父の張相禎(チャン・サンジョン)さん、母の朴順分(パク・スンブン)さんの次男として、広島市大洲町(現南区大州)で生まれた。兄1人、姉2人の4人きょうだいの末っ子だった≫
 両親はもともと、朝鮮半島の慶尚南道昌寧に住んでいました。おやじの弟が先に広島に移り住んでいて、おやじは促されてやって来たそうです。弟と一緒に、くず鉄や古道具を売った。これならやっていける、生活できるということで、1939年におふくろと兄、姉を呼び寄せたと聞きました。その翌年に私は生まれました。

 家は猿猴川に架かる東大橋の近くの長屋でした。物心ついた時から、兄貴たちに連れられて土手で遊んでいましたね。夏になると川に飛び込んで、見よう見まねで泳ぎを覚えました。あとは比治山や黄金山を駆け回っていました。

  ≪44年の冬、最初の大きなアクシデントが襲う。利き手の右手に大やけどを負った。4歳の時だった≫
 その日の食事にも困る環境で、おなかがすいていたんですね。粉雪がちらつく野山を友達と食べ物を探して駆け回り、サツマイモを掘り当てた。たき火をしながら、イモが焼き上がるのを楽しみに待っていました。そうしたら近くに止まっていた三輪トラックが突然バックし、はねられて右手を中心に火の中に飛び込んでしまったんです。

 おふくろは泣きじゃくる私を医者に連れて行ったそうですが、応急手当てくらいしかできなかった。おふくろが三日三晩、冷たい水で冷やしてくれたそうです。右手は薬指と小指がくっつき、ほかの指も内側にひん曲がった。

 運転手は私を家まで連れて行った後、逃げたそうです。見かねたおじさんが警察へ訴えたら、「朝鮮人じゃないか」と言われ、追い返されたそうです。

 右手には2カ月くらい、包帯を巻いていました。だから左手を使うようになったんです。もし右手にやけどを負っていなかったら、野球選手として成功していたのかどうか。もしかしたら、今の自分はなかったのかもしれない。人生は分からないものですね。

(2015年5月20日朝刊掲載)

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