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連載・特集

『生きて』 元プロ野球選手 張本勲さん(1940年~) <4> 野球との出会い

近所の友達に誘われて

  ≪戦後、母ときょうだいの4人での生活が始まった≫
 なんとか生きていかなくてはいけないと、おふくろは闇市で肉を仕入れて見よう見まねでホルモン焼きの店を始めました。朝から晩までずっと働き通しで、寝顔を見た記憶がないくらいです。

 私は小さい頃から同級生より体が大きくて、わんぱくでしたね。体を動かすのが好きで、中でも水泳が得意だった。パンツ1枚で川に飛び込んでいました。でも泳げるのは夏だけ。冬はぱっちん(メンコ)やラムネ(ビー玉)に熱中していました。

 野球を始めたのは比治山小5年の時。たまたま野球をやっていた近所の年上の友達に、「人数が足りないから、勲ちゃんちょっと来てよ」と誘われた。最初のポジションは、一番年下だったので右翼で8番、今で言う「ライパチ」。自分では覚えていないんですが、最初の打席でいきなり二塁打を打ったそうです。それで楽しくなって、しょっちゅう野球をやろうよ、とせがみました。右手は自由が利かなくて遠くへ投げられないから、練習して左投げ左打ちにしたんです。

 それでも一番好きなスポーツは水泳でした。小学校を卒業する時、兄貴に「男の子はスポーツをしないといけない」と言われ、中学では水泳部に入ろうと思っていました。ところが進学した段原中には、水泳部がなかった。それで2番目に好きだった野球を、本格的に始めるようになりました。もし中学に水泳部があれば、私は野球選手になっていなかったと思います。

  ≪野球に興味を持ち始めた時と前後し、1950年に広島カープが誕生した≫
 広島総合球場(現コカ・ウエスト広島球場、広島市西区)にはよく行きました。お金がないから入場券を買えず、球場の外の木によじ登っての観戦。もちろんカープを応援するんだけど、いつも負けてばかりでした。

 そうすると、子供は強いものに引かれてしまうんですね。それで巨人も好きになった。ある時、遠征に来た巨人の宿舎を友達とのぞきに行ったら、選手がステーキを食べていたんです。その光景を見て、自分もプロ野球選手になろうと決心しました。

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