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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 軍都の記憶を継ぐ 「失われた歴史」今こそ学ぼう 広島経済大教授 竹林栄治さん

 広島市で開かれる先進7カ国首脳会議(G7サミット)まで、あと1カ月。原爆の惨禍や平和都市の復興に国内外から目が注がれるが、その前には明治以降の軍都としての歩みがあった。広島経済大教授の竹林栄治さん(57)は被爆前までの歴史を授業で伝えようと模索している。軍都の記憶を若い世代に継ぐ意味を聞いた。(論説主幹・岩崎誠、写真・藤井康正)

  ―なぜ、軍都の歴史を教えようと思ったのですか。
 もともとドイツの経済や鉄道史が専門ですが、大学時代から太平洋戦争の歴史を調べていました。母校の教員として着任以来、戦前や戦時中の広島を教えたいと準備していたところ、教育ネットワーク中国の単位互換科目で、各大学から学生が参加する集中講義「広島を学ぶ」を手伝ってほしいと言われたことがきっかけです。沖縄で学生たちと戦跡巡礼を続けてきた同じ大学の岡本貞雄先生(昨年12月に死去)に頼まれたのです。

  ―具体的な手法は。
 まず特定のテーマを選ぶ少人数のゼミで軍都広島の基礎知識を教え、グループごとに旧軍施設を調べるスタイルでした。フィールドワークで陸軍の中国軍管区司令部や大本営があった広島城本丸を見学し、被爆電車に乗った後に宇品に向けて歩きました。徒歩での移動や、質素なおにぎりを食べさせることに不満も出ますが、被爆後に中心部から逃げた人たちの気持ちを体感するためです。これは岡本先生の沖縄巡礼を手本にしました。

 さらに大学の私のゼミでは、「広島戦跡巡りガイドブック」という冊子を作成し、課外授業として広島城周辺の旧軍遺構を学生たちが案内するツアーも企画してきました。

  ―手応えはどうでしたか。
 苦労もあります。戦前・戦中の用語、例えば空襲警報とか、警戒警報とか聞いても彼らはぴんときません。軍事史の視点の文献は結構ありますが、教育に生かせるものは少ないので手探りです。被爆直後に宇品から中心部に向かい、救援活動をした陸軍の船舶部隊「暁部隊」にはもっと光を当てたいのですが、全体像がまだ分かりません。

  ―そもそも「軍都」とは。
 後方支援や娯楽、軍人を泊める宿泊施設など都市を挙げて軍を支える機能があること。広島は日露戦争を機に軍都の様相を強めます。同時に路面電車など生活機能が充実し、広島高等師範学校が置かれる学都でもありました。日中戦争が始まるまで落ち着いた豊かな都市であり、そうした実像を学べば原爆で歴史は断絶せず、今とつながることがよく分かると思います。アニメ映画「この世界の片隅に」を見るのと同じように。

  ―広島湾の似島の歴史に注目していますね。
 多くの被爆者が運ばれた似島は原爆被害の象徴として捉えられますが、日露戦争のロシア兵捕虜のため俘虜(ふりょ)収容所が置かれた歴史をもっと重視すべきでしょう。

 私は第1次世界大戦で収容されたドイツ人捕虜たちの姿を伝える通訳のノートや名簿、アルバムなどの資料を入手しました。彼らには一定の自由があり、1919年1月には捕虜チームが高等師範学校のグラウンドでサッカーの模範試合を市民に披露し、その1週間後に広島の学生と対戦しています。戦争の合間には、こうした平和な国際交流もあったのです。

  ―広島のサッカー文化にも貢献した、というわけですね。
 日独交流史からも意義は大きいです。建設が進むサッカースタジアムの地下からは一昨年、中国軍管区輜重(しちょう)兵補充隊の被爆遺構が見つかりました。解体は残念でしたがスタジアム完成に合わせ、広島サッカーの原点である捕虜チームとの交流に光を当てられたら、と思います。サミットでドイツから来る人たちに見てもらえるかは分かりませんが、旧軍遺構や広島との交流史を伝えるドイツ語と英語のガイドブックを用意しました。

  ―軍都の歴史を教えることに違和感を持つ人もいます。
 広島の平和教育では戦前の歴史はブラックボックスになってきたとも感じています。ですが原爆で失われた軍都の歴史を正確に学ぶことは惨禍を語り継ぐ上でも意味があります。原爆も沖縄も各地の空襲も同様です。当時の人々の痛みを知ることが私と学生の何よりの基本です。

■取材を終えて

 沖縄巡礼を続けた岡本貞雄さんとは長年、懇意にしていた。その後継者とも言える竹林教授が苦心しながら、足元の歴史を伝える姿勢はうなずける。

たけばやし・えいじ
 下松市生まれ。広島経済大経済学部卒、同大学院経済学研究科博士後期課程単位取得退学。1994年同大助手。専任講師、准教授を経て2023年現職。日独交流史などを研究する。

(2023年4月19日朝刊掲載)

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