×

ニュース

[広島サミット5・19~21] 被爆地の実態 直視を 入市被爆・父被爆死 元宇品町内会・門会長

議論期待 準備に奔走

 広島市である先進7カ国首脳会議(G7サミット)の主会場の地元、南区元宇品町内会の門隆興会長(80)は、原爆で父を亡くした。自身も入市被爆者だ。「原爆が実際に使われたらどうなるか。各国首脳は現実を直視し、核兵器のない世界へ一歩でも前進してほしい」。開幕まで19日で1カ月。支援を惜しむまいと、受け入れ準備に奔走している。(編集委員・田中美千子)

 父英雄さんの墓は町内の自宅そばの高台にある。戦後、ひとり親で育ててくれた母百合子さん(2005年に87歳で死去)も共に眠る。「母は原爆のことを語ろうとしなかった。一方で、後世に残したい思いもあったんでしょう」。03年に英雄さんの被爆状況を書き残し、遺影と共に国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(中区)に納めていた。

 その記録によると、軍医だった父は1945年8月6日、基町(現中区)の陸軍病院外庭で朝礼中に被爆。現東区の救護所へ運ばれた。母が郊外の疎開先から駆けつけたが、既に移され、行方不明に。同14日、広島県北の病院に裸で寝かされているのを、祖父が見つけた。服をかけてやろうと探しに出た間に絶命していたという。34歳だった。

 門さんは当時3歳。葬儀に参列するため、15日ごろに一つ下の弟と市街地に入った。物心がつく前に父を亡くしたわが子を思う心情を、母は97年、夫の母校・旧制広島高(現広島大)出身者が発行した被爆体験集にしたためていた。「原爆によって終戦になり生(いけ)にえになった(略)悲しくてなりませんが、運命と思い気を落ち着け、二才と三才の幼児をあずけられた責任を力のかぎり働きました」

 門さんは、50代半ばを過ぎ、母に被爆者健康手帳の取得を勧められた。あの日から半世紀余りたっていたのは「母も差別を案じ、息子の被爆を隠したかったのでは」と推し量る。以来、被爆者としての意識を高め、16年にやはり地元で開かれたG7外相会合にも関心を向けた。「世界には地球を何度も滅ぼすほどの核がある。誤爆も怖いのに、脅しに使う国さえある」

 4年前、町内会長に就任し、迎える広島サミット。住民の疑問を行政にぶつけたり、地域で清掃を呼びかけたりと、成功へ前向きに協力する。「元宇品だけでも原爆に苦しめられた家族はたくさんおられる。首脳たちは核の実態を知り、実のある議論を」と力を込めた。

(2023年4月19日朝刊掲載)

年別アーカイブ