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朝鮮儒教の学説「ゆがみ」を指摘 昨春急逝の島根県立大・井上厚史教授

遺稿が新刊に 「3部作」完結

 東アジア思想史の研究者で昨年4月、島根県立大(浜田市)副学長在任中に63歳で急逝した井上厚史教授=府中市出身=の遺稿が、新刊書「李退渓(りたいけい)心学」(ぺりかん社)にまとまった。朝鮮儒教についての高度な専門書だが、日本を中心に定着した従来の学説の「ゆがみ」を指摘し、その背景にあるものに光を当てる学問姿勢は、専門の枠を超える問いを投げかける。(編集委員・道面雅量)

 本書が取り上げたのは16世紀の李氏朝鮮の儒学者、李退渓。儒教の体系化を進めた中国・南宋の学者朱熹(しゅき)の朱子学をさらに発展させ、整理したとされる。韓国の千ウォン紙幣に肖像が採用され、ソウル中心部に名を冠した通り「退渓路(テゲロ)」もあるが、日本でその人物像や思想を知る人はごく限られるのが現状だろう。

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 井上教授は、退渓が残したテキストの丹念な読み込みによって、その実像に迫った。退渓が説いたのは、「敬」(敬いの心)によって外界を窮理する(道理を突き詰める)ことが、「己を修め」「人を治め」「邦(くに)を為(おさ)め」ることにつながるとする思想―哲学と政治学を架橋するような独自の「心学」という。人間の上下関係の秩序を重んじる儒教の枠内ではあるが、為政者・支配層のための帝王学ではなく、万人がそれぞれの能力に応じて実践できる革新的な教えという。

 ところが、井上教授によると、そうした退渓の思想の可能性は、ある種の「壁」に封印されて十分に評価されてこなかった。形骸化した朱子学を批判する陽明学が、日本で発展して明治維新を促す力になったのに対し、朱子学を墨守した朝鮮儒教は、朝鮮の近代化を阻む要因となったとする図式が強固に存在し、その中に退渓も閉じ込められてきたという。

 井上教授は本書で、この「壁」をつくり上げた人物として2人の学者を挙げる。日本統治下の朝鮮に設立された京城帝国大で、教授を担った高橋亨(1878~1967年)と阿部吉雄(1905~78年)だ。それぞれに退渓の思想に向き合った実力者2人の学説は、近代日本を背負った「帝国的学知」のゆがみをはらみつつ、戦後75年以上が経過した今も、韓国人を含む多くの研究者の思考の枠組みを束縛しているという。例えば、「日本朱子学と朝鮮」を著した阿部の発想に倣い、日本の儒学に退渓が与えた影響に焦点を当てることで退渓を再評価する、といったパターンが繰り返されてきた。

 井上教授は、高橋、阿部の学説を退渓本人のテキストと忠実に照らし合わせ、問題点を具体的に指摘した。研究上の恩人への私信で「これまで誰も見たことがない李退渓先生の素顔を垣間見ることができたと思っています」と手応えを語っている。本書は、近年の日韓関係の悪化を憂慮して出版した論文集「相剋(そうこく)の日韓関係史」(溪水社、2020年)と、長年の研究を単著化した「愛民の朝鮮儒教」(ぺりかん社、21年)に続く3部作の締めくくりで、病で入院する前に編集者に原稿を送っていた。

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 「日本の棚田百選」に選ばれた室谷の棚田(浜田市)を活用した酒米作りや、石見銀山(大田市)の古民家を改修した図書館の開設など、学生と共に地域住民と対話を重ねながら、キャンパスのある石見地方の活性化にも励んだ井上教授。妻の朋子さん(57)は「そうした活動も、彼にとって儒教思想の実践だったと思います」と語る。「李退渓心学」はA5判400ページ、7700円。

(2023年4月21日朝刊掲載)

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