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連載・特集

『生きて』 通訳・被爆者 小倉桂子さん(1937年~) <2> 子ども時代

戦況悪化を肌で感じる

  ≪日中戦争が始まった1937年、広島市横堀町(現中区榎町)で父山根政吉さん、母ハルヨさんの下、7人きょうだいの4番目として生まれた≫
 八つ上に姉、六つ上と三つ上に兄、三つ下に弟、六つ下に妹がいました。戦後に生まれた弟もいます。きょうだいが多いためか、真ん中の私に、両親はあまり干渉しませんでした。幼い頃から自立していて好奇心旺盛。いつも何かを知りたがって外に出ているような子でした。

 父は菓子問屋を営んでいましたが、戦況悪化で入荷できなくなると今度は砥石(といし)工場を建てました。さらに戦況が悪くなると工場も閉鎖しますが、軍を相手に商売をしていたようです。父はとてもおしゃれで、戦中も軍服を着ないことがありました。「非国民だ」と真っ白なコートを見知らぬ人に切られたこともあると聞きました。

  ≪市中心部での転居を経て、7歳の時、当時は田園風景が広がっていた牛田(現東区)に引っ越した≫
 戦時中でも家の中で歌の大会をしたり人形劇をしたりするのがわが家の娯楽でした。私は、母に𠮟られてもはだしで逃げ回るようなおてんば娘で、蔵に閉じ込められたこともあります。でもすぐ泣きやんで、「森の石松」の本を見つけて2階の自然光が入る場所に移動し、読んでいました。それでまた母に怒られました。

 戦況悪化は子どもの目にも何となく分かりました。問屋だったので以前はお菓子を食べていたのに、だんだん食べられなくなる。街で見ていたバナナのたたき売りもなくなりました。その後、痩せていた父は徴兵検査で丙となり、召集されず地域の世話をしていました。

 そんなある日、空襲警報が鳴り、自宅の防空壕(ごう)に入ると、バリバリと音が聞こえました。米軍機が低空飛行で機銃掃射にやって来たのです。防空壕から外を見ると、納屋が燃えていました。

 空から至近距離で襲われる恐怖。燃えさかる火…。怖くて怖くて、しばらくの間、夜眠れなくなりました。でもその後、さらに恐ろしい出来事が待っているとは、その時には想像さえできませんでした。

(2023年4月26日朝刊掲載)

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