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[ヒロシマの空白 証しを残す] 元宇品望む 珍しい構図も 被爆翌年の広島 カラーの空撮写真

「少しずつ生き返る」廃虚の市街地

 米軍による広島への原爆投下の翌年の1946年4月、焼き尽くされた市中心部や、広島湾エリアを上空から撮影したカラー写真9枚が米国に残っていた。後に平和記念公園(中区)が整備された旧中島地区や、19~21日にある先進7カ国首脳会議(G7サミット)の主会場の元宇品町(現南区)などを撮影。被爆の深い爪痕を鮮明に伝える。(編集委員・水川恭輔)

 9枚は、神戸映画資料館(神戸市)の研究員衣川太一さん(52)が米企業のインターネットオークションサイトで入手。フィルムを枠で固定して映写して見るカラースライドとして残っており、衣川さんが画像をデジタル化した。広島市役所周辺や観音地区(現西区)の写真も含まれ、9枚とも原爆資料館(中区)が未確認のカットだった。

 衣川さんによると、撮影者は不明だが、セットで入手した別の写真に写る人物の姿から米国の高官の可能性がある。飛行機で中国から東京方面に向かうことが記された書類を写したカットも残されていた。衣川さんは「東京方面に向かう途中、搭乗者に原爆で壊滅した街を見せるために広島上空を飛んだようだ」とみる。

 原爆資料館によると、これまで確認してきた米国側の写真のうち被爆から間もない広島の街をカラーで撮ったものは白黒に比べて格段に少なく、40枚程度。落葉裕信・学芸係長は今回の9枚について「特に広島湾側から元宇品町をはっきりと収めた構図が珍しい。廃虚に建物が建ち始め、少しずつ街が生き返る様子も伝わる」と注目している。

米に眠るスライド用フィルム

 占領期の日本を訪れた多くの米国人が、スライド用のカラーフィルムで街や人を撮っていた―。米国の写真資料に詳しい佐藤洋一・早稲田大教授と衣川太一さんは、2月に刊行した共著「占領期カラー写真を読む―オキュパイド・ジャパンの色」で、日本では資料としてあまり知られてこなかった米国のカラースライドについて解説している。

 同書によると、1945年から52年まで続いた占領期、米軍の公式写真は基本的に白黒フィルムで撮られた。カラーフィルムは紙へのプリント処理が難しかったことなどが理由という。

 ただ、米国ではイーストマン・コダック社が30年代にスライド用カラーフィルムの販売を始め、アマチュアにも普及。46年には約4千万こまが撮られ、50年に1億こまを超えた。日本に入った進駐軍の関係者なども個々人の関心に沿ってスライド用の写真を撮った。

 現像後のフィルムは一枚ずつ枠に収められ、自宅で保管して家族や知人の前で上映するケースが多かったとみられる。そのため公的施設が所蔵・公開している米軍の公式記録写真に比べ、公表される機会は少なかったという。

 だが2000年代後半ごろからオークションサイトに米国のカラースライドが多く出回り始めた。衣川さんはこれまでに1万3千~1万4千枚を収集した。日本でのカラーフィルムの普及は60年代中ごろからだったとされており、貴重な資料だ。

 近年、米国の大学図書館が、戦後の日本を訪れた研究者が残したカラースライドをデジタル化して公開する例も出てきている。佐藤さんは「米国人が撮った写真でも撮られた日本の各地域とつなぐことで地域資源として活用できる」と話す。

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 「占領期カラー写真を読む―オキュパイド・ジャパンの色」は被爆翌年の広島市内の空撮のほか、現在の江田島市や岡山市などで撮影の写真も紹介している。岩波新書。1254円。

(2023年5月1日朝刊掲載)

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