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連載・特集

『生きて』 通訳・被爆者 小倉桂子さん(1937年~) <3> 原爆

惨禍 幼い目に焼き付け

  ≪1945年8月6日、爆心地から北へ2・4キロで被爆した≫
 8歳になったばかりの牛田国民学校2年生でした。父がその朝「何か嫌な予感がする。今日は学校に行くな」と言うので1人で自宅の北側の道で遊んでいました。突然目もくらむような閃光(せんこう)に包まれ、吹き飛ばされました。気付いた時には真っ暗。近くのわら屋根が燃えていました。

 家に帰ってみると天井や屋根瓦は吹き飛び、ガラス戸が割れて破片が壁や柱に突き刺さっていました。しばらくして少しねばねばした灰色の雨が私の服をぬらしました。

 学徒動員先で顔や手にやけどした上の兄が帰ってきて「市内は火の海だ」と言うので、びっくりしました。私は近くの神社の高台から様子を見ようと外に出ました。

 神社に幽霊のような列が押し寄せてきました。頭髪は焼け、すすで汚れた顔は腫れあがり、血まみれで皮膚が垂れ下がった人もいます。石段は瀕死(ひんし)の人で埋め尽くされました。

 突然、足首を誰かにつかまれました。「水…」と力ない声が聞こえます。走って家に戻り井戸水をくんできて飲ませると、その人はガクッと息絶えました。恐怖でした。水をあげたことを後悔しました。このことは誰にも言うまいと思いました。

 その後も神社に行くと、負傷者の皮膚にうじが湧いて出たり入ったりしていました。なぜそんな凄絶な光景を8歳の女の子がじっと見ていたのか不思議でしょう。負傷をした人や救護に当たった人はそれどころではない。子どもの私は自由に動き回れました。負傷者の傷にハエがたかり卵を産み、うじが湧く様子から目をそらすことができませんでした。

 父は地域の世話係として毎日死体処理をしていたようです。知りたがりの幼い私は「どうやって焼いたの」と父を問い詰めましたが、教えてもらえませんでした。半壊のわが家は負傷した親戚や知人であふれました。真夏の高温下、吐き気を催す臭いが充満していました。

 高台から街を見下ろすと、向こうの海がとても近くに感じました。遺体を焼く煙があちこちで上がり、時折臭いが流れて来ました。この時の体験は心の傷となり、長く誰にも話すことができませんでした。

(2023年4月29日朝刊掲載)

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