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連載・特集

『生きて』 通訳・被爆者 小倉桂子さん(1937年~) <4> 英語熱

敗戦後 社会の現実知る

  ≪敗戦後、姉と島根県阿須那村(現邑南町)の旅館へ一時避難する≫
 「占領軍が来たら子どもは皆殺しにされ女はレイプされる」とうわさが流れました。すぐにデマだと分かって牛田(現広島市東区)の自宅に戻りましたが、被爆直後の広島で大家族が食べていくのは大変です。家族が半々に分かれ、私は母と弟妹と再び阿須那村で数カ月を過ごしました。私はそこでもすぐ田舎芝居に子役で出演したりと、物おじせず活発に過ごしました。

 初めて進駐軍の兵士を見たのは、牛田に残った父や姉兄たちのために村からこっそり米を運んでいた時です。広島駅前の闇市で当時パンパンと呼ばれた女性と一緒にいる男の人を見ました。戦中は「鬼畜米英」と教えられ「敵国人は鼻が高く目が青い」と聞いて、てんぐのような姿を想像していたのに「なんてきれいな人だろう」と驚きました。もう一つの驚きは、米国から届く援助物資「ララ物資」。父が闇で手に入れた宝石みたいなジェリービーンズやチョコレートにも感動しました。「おいしいものには英語が書いてある」とインプットされました。英語熱が芽生えました。包装紙の文字をとにかく読む。最初に覚えたのはチョコのHERSHEY(ハーシー)です。

 ≪英語を学びたくて、外国人教師がいる広島女学院中高へ進学した≫
 入試の面接でアルファベットを聞かれ、Rまで言えたのだけど次が出てこず「OPQR、セブン、エイト、ナイン、テン」と答えて、落ちたと思ったけど合格でした。中高ではキリスト教と出合い、奉仕の精神を学びました。みんなより1時間早く学校に行き、お祈りしました。

 いつも神様が見ていると思って行動していました。米兵と日本女性との間に生まれ乳児院に預けられた赤ちゃんのお世話をしたり、拘置所にいる人に聖句を書いた手紙を送って励ましたり。奉仕活動を通じて社会の現実を学びました。17歳で洗礼を受け、日曜学校の先生もしました。奉仕活動の一方、演劇部の活動にも一生懸命でした。NHKの放送劇で子役をしていたのもこの頃です。

 ただ戦後、よく鼻血が出ました。被爆後無傷だった人が突然亡くなるのを見ていたので少し不安でした。

(2023年5月2日朝刊掲載)

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