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連載・特集

呉の「なぜ?」探ってみた <4> 名物と言われる菓子が多彩

旧海軍の「甘味需要」関係か

 鳳梨萬頭(おんらいまんとう)に蜜饅頭、椿まんじゅう、いがもち、フライケーキ…。呉には名物といえるお菓子が多くある。どれも手土産やおやつにぴったり。それぞれファンも多く「呉と言えばこれ」と一つに絞れないぐらいだ。個性的なお菓子がこれほど多いのはなぜだろうか。理由を探った。

 手がかりをつかもうと、鳳梨萬頭で知られる天明堂を訪ねた。代表取締役の宍戸俊介さん(55)は「呉は旧海軍都市として発展した街。やっぱり関係は深いんじゃないんかな」という。

 確かに呉は旧海軍都市として栄えた。1889年に呉鎮守府が開庁した後、呉海軍工廠(こうしょう)ができ、工員をはじめ多くの人が移り住んだ。「東洋一の軍港」と呼ばれるまでになり、1943年の配給台帳上では現在の人口の倍近い40万4千人と記録されている。

 だが「海軍とお菓子」といってもぴんとこない。元呉市史編さん室長の千田武志さんに関係を聞いた。

 「アイスクリームやラムネ、ようかんなどを作っていた船があったのを知っていますか」。千田さんは旧海軍の給糧艦「間宮」の存在を教えてくれた。前線の艦艇へ食料を補給する役割を担う。「長い航海を乗り切るには変化に富んだ食事が重要。士気を上げるためにも海軍に甘い物は必需品だった。もちろん街からも仕入れていた」と言う。

 大正期、呉市では海軍工廠の生産分を除く工業生産の半分以上を食料品関係が占めた―。そう記述する呉市史は「海軍の消費に依存した姿が端的に示されている」とする。

 旧海軍とお菓子の結びつきがつかめてきた。観光都市の側面との関係を指摘する声もある。海軍史研究家の斎藤義朗さん(50)=長崎市=は「戦前は呉でも軍艦見学ができた。進水式に10万人が訪れたとの記録もある」。軍艦煎餅などが土産物に人気で「旧海軍遺構や海上自衛隊の艦船が観光資源になっている今と似た状況だったのでは」と話す。

 昭和6(1931)年創業の老舗「松田屋」は戦前からの味を守りつつ、大和ミュージアムに置いている「呉大和せんべい」やサブレ「大和の大砲」など新商品を開発してきた。2代目の松田茂代表(76)は「土産物は今もよく出る」と話す。

 椿庵博美屋の創業者の片井博之さん(85)は「戦後の呉には1人でやってるような小さな菓子屋がたくさんあった。みな日本一の菓子を目指してやってきた」と振り返る。各店が味を追求した結果、呉に多彩なお菓子が生まれたのかもしれない。天明堂の宍戸さんは自信を持っている。「広島県と言えばもみじまんじゅうかもしれない。でも呉に来るとイメージは変わりますよ」(仁科裕成)

(2023年5月7日朝刊掲載)

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