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連載・特集

『生きて』 通訳・被爆者 小倉桂子さん(1937年~) <7> ロベルト・ユンク

説得されて通訳デビュー

 最愛の夫が急死し、悲しみに暮れていたとき、ロベルト・ユンクから電話がかかってきました。広島に行くから通訳をしてほしいと言います。「通訳の経験なんてないし絶対無理」といったんは断りました。長く主婦でいて英語も忘れています。でもユンクは「君には資格がある」と私を説得にかかるのです。「君は愛する人を突然失った悲しみが分かる、被爆者の苦しみも知っている。人の命を奪い、苦しめるのが戦争であり核だ。その悲しみを踏み台に、頑張ってごらん」と。

  ≪1980年2月、日本各地の原発を視察に回っていたドイツ出身のユダヤ系ジャーナリストのユンク氏が、10年ぶりに広島を取材に訪れる≫
 ユンクは強引で、到着するなり私を知識人や平和運動家たちの前に座らせ、通訳させました。私は当時本当にものを知らず、「原発」が訳せないような状態でした。あちこち連れて行かれましたが、平和記念公園(中区)でユンクが原爆慰霊碑を背に仁王立ちし、「犠牲者に代わって怒りに震え、核兵器を告発する」と大声で叫んだのは忘れられません。

 翌日は、ユンクが広島を描いた名著「灰墟(はいきょ)の光」にも登場した河本一郎さん、被爆者として原水爆禁止運動を率いた森滝市郎さんと同行し、三滝寺(西区)を訪ねました。アウシュビッツの慰霊碑があり、ホロコーストで愛する家族を奪われたユンクは深い祈りをささげていました。

 ユンクの通訳をやり遂げ、終わりではありませんでした。海外のジャーナリストや研究者が次から次へと連絡してきます。いつの間にか調整や通訳に追われていました。辞書を引き引き、英語を猛勉強しました。

 夫の遺品の手帳をめくると、ヒロシマ案内に欠かせない学者や平和運動家の連絡先がぎっしり。それを頼りに「小倉馨の妻です」と電話すると誰もが快く応じてくれました。急速に人脈が広がりました。今堀誠二、湯崎稔、原田東岷…。海外の人を被爆地のキーパーソンとつなぎながら、私も多くを学びました。

 生活のため、YMCAや専門学校で英語講師を始めました。昼も夜も働き、合間に外国人を案内する生活。初めて「奥さん」ではなく、自分に名前ができた気がしました。

(2023年5月6日朝刊掲載)

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