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連載・特集

緑地帯 山下一史 広島に生まれた指揮者②

 僕は一人っ子で、父は今では死語となってしまった昭和の「猛烈」サラリーマンであったので、幼稚園に上がるまでは母とほぼ2人っきりで過ごしていた。

 家にテレビはあったが、母がレコードをかけて、いつも音楽が流れていたように思う。そんな時、母はいつも弟(僕にとっては叔父にあたる)祐策との思い出を話してくれた。戦時中、女女女男男男の6人きょうだいの末娘と末息子である母と祐策は12歳違いではあったが共に音楽好きで、その当時敵国の音楽として聴くことを禁じられていた西洋音楽を、押し入れに蓄音機を持ち込んで肩を寄せ合って聴いていたという。犬が蓄音機に耳を傾けているレコード会社の商標を指して、「こんなふうに祐策と聴いていたの」という母の言葉を明瞭に記憶している。

 そんな2人をあの原子爆弾が襲ったのだった。母は18歳、祐策は6歳だった。当時自宅は大手町にあり、爆心からわずか800メートルの距離で2人は被爆した。母は足を中心に37カ所もの傷を負い生死の境をさまよったが、祐策は奇跡的にほぼ無傷であったという。被爆から1週間後、2人の髪の毛は同時にすべて抜け落ちてしまう。祐策はそれを境に急激に体調を悪化させて3日後に亡くなった。その後4カ月を経て母は徐々に回復していったが、健康な状態からは程遠く、髪もまだ生えてこなかった。被爆後のことを母が僕に語ることはなく、僕の出生時の話と共に主に祖母(母の母)から聞かされた。後に母が手記を出すまで詳しいことは何一つ母の口から僕に語られることはなかった。(指揮者=東京都)

(2023年5月5日朝刊掲載)

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