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連載・特集

緑地帯 山下一史 広島に生まれた指揮者①

 今年の1月7日に行われた「もみじニューイヤーコンサート2023」で生まれ故郷の広島交響楽団を指揮した。ふるさとのオーケストラを指揮する時はいつも特別の感慨があるが、今回は亡き父が勤めていたもみじ銀行(旧広島相互銀行)の主催とあって格別の思いがあった。

 コンサート開演前、聴きに来てくれる親戚にチケットを渡すためにロビーに出た所で老婦人から声を掛けられた。「山下さんですか」。マスク姿でなるべく目立たぬようにしていたのでそう言われたことがとても意外だった。しかし次にその老婦人が発した一言はさらに僕を驚かせた。「歩き方がお父さんそっくり」。なんとその老婦人は父の現役時代にもみじ銀行で働いておられたのだ。父が亡くなってはや13年、退職してから30年以上がたつのに父のことを覚えてくださっている方がいるということに心が震えた。

 僕も一昨年還暦を迎え、父がリタイアした歳に近づいてきた。14歳の時に故郷の広島を離れて一人東京に出て以来、一度も同じ屋根の下で暮らすことがなかった父と歩き方が似ているということが少しうれしく、そして少し照れくさかった。この出来事は一挙に僕を広島時代に引き戻してくれた。

 2022年が広島交響楽団のプロ改組50周年ということで取材を受けた折にこの原稿の依頼を受けた。あの父と母のもとに生まれていなければ、広島で育った14年間がなければ、きっと僕は指揮者になっていなかったのではないかと思う。(やました・かずふみ 指揮者=東京都)

(2023年5月4日朝刊掲載)

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