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連載・特集

『生きて』 通訳・被爆者 小倉桂子さん(1937年~) <6> 夫・小倉馨 「ヒロシマの世界化」に尽力

  ≪ドイツ出身のジャーナリスト、ロベルト・ユンク氏との再会が縁で何かと連絡を取るようになり、1962年、17歳年上の小倉馨さんと結婚≫
 娘と息子を授かり、私は主婦として家事育児に義父母の介護にと忙しくも充実した毎日を過ごしました。

 米国生まれで英語が堪能な夫は、57年からユンクが広島を訪れるたびに調整や通訳をし、その後も原爆被害を伝える資料を英訳して送ったり協力を続けたりしていました。私と結婚したときには広島市の渉外担当者で、海外要人を英語で案内するだけでなく、要請を受け県知事や大学関係者の通訳もしていました。

 ≪馨さんは原爆資料館長や市長室次長を歴任し館長時代は来館者が思いをつづる「対話ノート」を発案。米ニューヨークの国連本部での原爆写真展開催に努めたのをはじめ「ヒロシマの世界化」にも尽くす≫
 仕事に追われ忙しい人でしたが、家庭をとても大切にしました。時間が取れれば、自然の中に子どもを連れて行きました。仕事が早く終わった夕方には「今から出掛けよう」と連絡があり、家族で広島港(南区)の1万トンバースへ。ござを敷き、急きょ容器に詰めて持参した晩ご飯を食べながら、外国の貨物船を子どもたちに見せるのです。そして「この海は世界とつながっているんだよ」という話をよくしていました。

 子どもたちは「パパは太陽、ママは月」と言いました。夫はいつも朗らかであったかい。気分屋の私は満ち欠けがある月ということみたい。

 知識欲に満ちた夫を私は尊敬しつつ、嫉妬もしていました。私が皿を洗うそばで海外の雑誌や本を読む夫に「自分だけ勉強して。私には何の能力もない」と思いの丈をぶつけ、夜によく泣いていました。主婦として育児介護や家事に追われ、社会から置いて行かれるような気がしていたのかもしれません。それでも家族で過ごす時間は本当に幸せでした。

 ≪79年7月、8月6日の平和記念式典で広島市長が読み上げる平和宣言の草稿を執筆していた馨さんが倒れ、帰らぬ人となる≫
 当時子どもはまだ15歳と12歳。あまりに突然で、途方に暮れました。

(2023年5月4日朝刊掲載)

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