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連載・特集

『生きて』 通訳・被爆者 小倉桂子さん(1937年~) <5> 出会い

英語が縁で観光ガイド

 広島女学院大2年の時、出会いがありました。ドイツ出身のユダヤ系ジャーナリストのロベルト・ユンクに、知人を通じ、英語が話せる若い被爆者として紹介されたのです。

  ≪ユンク氏(1913~94年)は原爆開発の歴史に迫った著作などで当時既に世界的に知られていた。広島には57~80年に5度訪れ、被爆者たちを取材している≫
 当時できて間もない広島市民球場(中区)の裏で取材を受けました。原爆で広島市民は住む家も食べる物も十分でない状況なのに、なぜこんなぜいたくな球場かと聞かれました。ユンクは少し批判的に見て、若者の意見を聞きたかったようです。私は「つらくても楽しみがあると元気になれる。広島には希望が必要です」と答えたように思います。

 1960年、大学を卒業した私は父の知人に頼まれ、バス会社で働くことになりました。当時父が菓子販売を再開した大須賀町(現南区)に広島バスの本社があったのです。豪華な外国人専用観光バスを導入して英語でガイドする新事業を始めるところでした。

 私は通訳ガイド用の案内原稿を書くため、広島や宮島を徹底的に歩いて取材し、それを英文にまとめました。でも肝心のガイドがなかなか見つかりませんでした。結局、私がガイドもやることになりました。父は娘が働くのすらいい顔をしません。ましてや人前に出るガイドなんてと猛反対しましたが、正規ガイドが決まるまでの「指導員」だと会社から説得されました。

 制服は小紋に緑のはかま、その後えんじ系のスーツになりました。実は最近知ったのですが、当時ユンクが広島で撮影しドイツで放映したドキュメンタリー番組に、ガイド中の私の姿が写っていました。知らないうちに撮られていたようです。

 ある日、乗客の外国人夫婦と一緒に新広島ホテル(現広島国際会議場)で食事していると、遠くにユンクが見えました。市民球場で取材を受けて3年ぶりの再会でした。その時ユンクの隣にいたのが、のちの夫・小倉馨でした。考えてみればこの時期の出会いや経験は、すべて私の人生に大きな影響を与えています。不思議ですね。

(2023年5月3日朝刊掲載)

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