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連載・特集

緑地帯 山下一史 広島に生まれた指揮者③

 母は同じ状況下で被爆して自分だけが助かってしまったという一種の「負い目」を感じていて、それに対する贖罪(しょくざい)の気持ちを強く持っていたように思う。母の手記に祐策の描写がある。「祐策は皆から格別に愛されていました。男の子なのに小学校に入るまでおかっぱ頭で、良く女の子と間違われるほどでした。優しいナイーブな子で、音楽が大好きでした」。僕の幼少時代の写真を見ると、母の手作りのフリルのついたシャツを着て、頭はおかっぱだ。母は幼くして亡くなってしまった最愛の弟の面影を僕の中に見ようとしていたのかもしれない。そして音楽好きであったという彼の性向までも。これは僕の考え過ぎかもしれないが、まあ、中(あた)らずと雖(いえど)も遠からずで、この真相はしばらくたって母のもとに行った時に祐策叔父も交えて語り合いたいと思っている。

 そんな母の思惑などつゆほども知らぬ僕は、幼稚園の頃だっただろうか、母とNHK交響楽団のテレビ中継を見ていた。まずオーケストラが勢ぞろいすると、1人のヴァイオリンを持った人が入ってくる。大きな拍手で迎えられたその人は恭しくお辞儀をしてからチューニング(音合わせ)をする。それが終わるとオーケストラも聴衆も一瞬静かになり何かを待っているようだ。そこに楽器を持たず1本の細い棒だけを持った人が舞台に入って来るとひときわ大きな拍手が湧き起こり、その人が中央の台に登りオーケストラに向かって棒を振り下ろすと、間髪入れずオーケストラが渾身(こんしん)の音を出す。僕の身体に電流が流れたかのような衝撃が走った。「ママ、僕これになりたい!」(指揮者=東京都)

(2023年5月9日朝刊掲載)

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