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連載・特集

緑地帯 山下一史 広島に生まれた指揮者⑤

 父は前にも書いたように、典型的な昭和の「モーレツ」サラリーマンだった。今のように週休2日制ではなかったこともあって、「月月火水木金金」を地で行くような人だった。なぜ日曜日がないかというと、日曜日はほぼ毎週、半分仕事半分趣味のゴルフに行っていたからだ。それに当時は今と違って夜の接待も多く、夜遅く帰ることが多かったので、なかなか生活の接点がなく、僕が音楽を習い始めたこともあって、軍歌や演歌ならともかく、クラシック音楽には全く縁がない父自身も僕とどう向き合ったら良いのか測りかねているようなところがあった。

 そのような父子の関係だったが、僕が中学2年生の冬に、東京に出て勉強したいと告げた時に言われた幾つかの言葉は今でも強く心に残っている。元々高校から桐朋学園の音楽科に進むつもりであったし、親もうすうすその覚悟はできていたとはいえ、思ってもみないタイミングでの息子からの無鉄砲な願いに戸惑ったに違いない。

 父いわく「中学から東京に出るということは、人生の大切な決断を1年であっても早くすることになる。その覚悟はあるのか」と。また、1年後の高校入試に失敗するようなことがあれば、音楽の道に進むことは絶対に許さないと、今までになく厳しく言い渡された。そしてその後に少しトーンを落として「これで一史が首尾よく音楽家になれたら、もう二度と同じ屋根の下で暮らすことはないな」と。当時の僕はこの言葉の裏にある両親の寂しさに思い至らず、そんな自分の浅はかさを今は恥じ入るばかりである。(指揮者=東京都)

(2023年5月11日朝刊掲載)

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