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連載・特集

緑地帯 山下一史 広島に生まれた指揮者④

 「ママ、僕これになりたい!」と言われたものの、母は戦時中に歌の勉強のために東京に出たいと思っていたようだが、親に反対されてかなわず、戦後程なくして父と結婚して専業主婦になって、すっかり音楽から遠ざかっており、また父も全くの門外漢ゆえ、取りあえず僕を町の音楽教室に入れることにした。父が何処(どこ)かからもらい受けて来た中古の足踏みオルガンと共に僕の音楽人生は始まった。

 町の音楽教室の、今となってはお名前もわからなくなってしまったが、その先生から桐朋学園の子供のための音楽教室を紹介されて通うことになり、ピアノを始めた。当時中国電力のエンジニアで、斎藤秀雄先生に私淑して、音楽教室の世話役のような役割をしておられた大畠弘人さんという方がいらして、指揮者を目指すなら、オーケストラの中の楽器を何か一つ習得することが必要であるとのアドバイスを頂き、小学4年生からチェロを始めた。その当時斎藤先生は3~4カ月に一度は広島に来られてレッスンをしてくださっていた。小学生から指揮のレッスンを受けられるわけではないが、斎藤先生に早く会いたいという気持ちもあった。斎藤先生は残念ながら僕が中学2年生の時にお亡くなりになったので、先生に指揮のレッスンを受けることはかなわなかったが、チェロを弾いていたおかげで、広島出身の名チェリストで、当時大学生だった山崎伸子さんのコンサートを中学2年の時に上京して聴き、そこで後に師匠となる円光寺雅彦氏に出会うのである。

 ここにお名前を挙げさせて頂いた方、誰一人が欠けても今の僕はない。(指揮者=東京都)

(2023年5月10日朝刊掲載)

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