×

連載・特集

[ヒロシマの声 NO NUKES NO WAR] 生きたかった禎ちゃん 被爆者 川野登美子(かわの・とみこ)さん(80)=広島市中区

  ≪2歳で被爆し、10年後に白血病で亡くなった佐々木禎子さんと幟町小(現広島市中区)で同級生だった。禎ちゃんのために何かせにゃいけん―。6年竹組の級友たちと始めた募金は全国へ広がり、1958年5月5日、平和記念公園(同)に「原爆の子の像」が建った。禎子さんの「生きたい」という願いを胸に原爆の惨禍を証言。折り鶴再生紙のノートを海外の小中学生へ贈る活動も広げている。≫

動画はこちら

 原爆の子の像の前を通るたびに、外国人観光客や修学旅行生たちが像を囲み、折り鶴をささげる光景を目にする。世界中の人びとが禎ちゃんを悼むだけでなく、平和を願って鶴を折り広島に届けている。そのきっかけをつくったという不思議な感覚と、80年間生きて来た責任の重さも感じる。

 3歳の時に爆心地から2・3㌔離れた牛田町(現東区)で被爆した。広島県立広島第一中学校(現国泰寺高)の3年生だった長兄は被爆翌日、収容先の国民学校で、「僕は残念だ!」と叫びながら息を引き取った。

 幟町小では2年から6年まで禎ちゃんと同じクラス。足が速く、7段の跳び箱を跳べるのは禎ちゃんだけ。ゴム跳び、鉄棒と何でも一緒に遊んだ。でも6年の2月に入院してしまった。「佐々木は小まい(小さい)時、原爆に遭うとる」。担任の先生の説明に「私も原爆症になるかもしれない」とヒヤっとした気持ちになったのを覚えている。クラスの三分の一以上は被爆者。被爆の後遺症と死は直結していた。

 級友たちと「団結の会」を結成し、卒業後もお見舞いを続けた。病室を訪ねると、窓枠やベッドの回りに折り鶴がつり下げられ「病気が治らんけえ折るんじゃ」と、禎ちゃんが薬や菓子の包み紙で必死に鶴を折っていた。手脚に紫色の斑点が見えた。居たたまれず、次第に足が遠のいた。

 禎ちゃんの死後、「ひょっとしたら自分も」という恐怖心とお見舞いに行かなくなった後悔の念が、竹組のみんなを原爆の子の像の建立運動へ突き動かした。禎ちゃんも兄も生きたかったのに、戦争がすべてを奪った。それを、子どもたちへ伝えるのが私の宿命だ。

 2018年から中小企業家同友会の有志と「折り鶴ノートプロジェクト」を始め、これまで欧米やアジア、アフリカの小中学生たちに6600冊余りを寄贈した。折り鶴を再生したノートを使えば、子どもたちが平和の心を育むと信じ、息の長い活動を目指している。

 ウクライナやスーダンで殺し合いが続き、本当に心が痛む。先進7カ国首脳会議(G7サミット)に集うトップの方々は、被爆者の声をじかに聞いてほしい。核兵器がこの世に存在する限り、恐ろしい核被害は誰にでも起こり得る、という現実を心の底から感じ、政治行動へつなげるよう願っている。(聞き手は桑島美帆)

年別アーカイブ