証言22年ぶり再開 被爆者の「ヒロシマを語る会」 遺族や2世も継承の力に
23年5月12日
被爆者の豊永恵三郎さん(87)=広島市安芸区=が、会員の高齢化のため2001年に解散した被爆者の証言活動グループ「ヒロシマを語る会」を22年ぶりに再開させた。被爆後に左脚を失った苦難を超えて被爆アオギリの下で命の尊さを説いた沼田鈴子さん(2011年に87歳で死去)たち仲間の思いを継承しようと、原爆犠牲者の遺族や、被爆2世たちも加えての再出発だ。(湯浅梨奈)
豊永さんが11日、市青少年センター(中区)で会の再開後初となる証言に臨んだ。「母は、顔が判別できないほど大やけどを負いました。被爆直後、弟の下痢が1週間止まらなかった」。兵庫県豊岡市の三江小6年生22人を前に、9歳の時の入市被爆と家族の被害を口にした。二つのがんを患った苦しみも語り、「みなさんは平和を守り続けて」と強調した。
「ヒロシマを語る会」は1984年、高校教諭だった豊永さんや沼田さんたちが創設。原爆ドームの前で3千枚以上の絵を描き続けた原広司さん(2019年に87歳で死去)らと、多い時は年間約4万人の修学旅行生に体験を語った。
メンバーは最多で27人を数えたが、高齢化や病気のため解散を余儀なくされた。豊永さんたち数人は、個別に活動したり、別のグループに所属したりして証言を続けた。
当時のメンバーで存命なのは豊永さんだけ。子どもたちに語る活動に全てを懸けた沼田さんの姿がいつも心にある。「自分が生きているうちに、次世代に引き継ごう」との思いが募り、会の活動再開を決意。知り合いの胎内被爆者や被爆2世たちに声をかけた。10人余りが集まった。
市が養成する「家族伝承者」を志したものの、被爆した家族が既に亡くなっており応募要件を満たせなかった人も。小西博子さん(74)=東区=は「被爆から20年後に白血病で他界した兄の苦悩を語りたかった。機会をもらいありがたい」と力を込める。
豊永さんは「『原爆被害者』は被爆者だけでない。広くメンバーに加わってもらいたい」と話している。
(2023年5月12日朝刊掲載)
豊永さんが11日、市青少年センター(中区)で会の再開後初となる証言に臨んだ。「母は、顔が判別できないほど大やけどを負いました。被爆直後、弟の下痢が1週間止まらなかった」。兵庫県豊岡市の三江小6年生22人を前に、9歳の時の入市被爆と家族の被害を口にした。二つのがんを患った苦しみも語り、「みなさんは平和を守り続けて」と強調した。
「ヒロシマを語る会」は1984年、高校教諭だった豊永さんや沼田さんたちが創設。原爆ドームの前で3千枚以上の絵を描き続けた原広司さん(2019年に87歳で死去)らと、多い時は年間約4万人の修学旅行生に体験を語った。
メンバーは最多で27人を数えたが、高齢化や病気のため解散を余儀なくされた。豊永さんたち数人は、個別に活動したり、別のグループに所属したりして証言を続けた。
当時のメンバーで存命なのは豊永さんだけ。子どもたちに語る活動に全てを懸けた沼田さんの姿がいつも心にある。「自分が生きているうちに、次世代に引き継ごう」との思いが募り、会の活動再開を決意。知り合いの胎内被爆者や被爆2世たちに声をかけた。10人余りが集まった。
市が養成する「家族伝承者」を志したものの、被爆した家族が既に亡くなっており応募要件を満たせなかった人も。小西博子さん(74)=東区=は「被爆から20年後に白血病で他界した兄の苦悩を語りたかった。機会をもらいありがたい」と力を込める。
豊永さんは「『原爆被害者』は被爆者だけでない。広くメンバーに加わってもらいたい」と話している。
(2023年5月12日朝刊掲載)