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連載・特集

『生きて』 通訳・被爆者 小倉桂子さん(1937年~) <11> 抗議の旅

原爆投下国の多様な姿見る

  ≪2003年12月、米ワシントン郊外スミソニアン航空宇宙博物館新館で広島に原爆を投下したエノラ・ゲイ号の復元機体が一般公開された≫
 広島県原水禁の派遣で、抗議のため被爆者の坪井直さんの通訳として現地に行くことになりましたが、出発前から大変でした。米国でも報じられたのでしょう。脅しや嫌がらせのメールが来るようになりました。原爆投下を肯定するだけでなく、「地獄に落ちろ」と赤紫の不気味なフォントで書かれたものもありました。励ましの声も届きましたが、不安のうちに旅立ちました。

 博物館に着くと、外で「帰れ、帰れ」と罵声が浴びせられました。館内に一歩足を踏み入れると巨大なエノラ・ゲイにたじろぎました。続いて小さな戦闘機が誇らしげに展示してありました。幼い日に体験した機銃掃射の恐怖の記憶がよみがえり、怖くて怖くてそばにいた人にしがみつきました。無抵抗な人に空から襲いかかった機体です。通訳することもできず、泣き続けていました。

 坪井さんはエノラ・ゲイに近づき「憎たらしい」とにらみつけていたけど私は動けませんでした。しばらくして泣く泣く近づいてみると、説明板に市民を殺したという説明はなく、そばで米国の子どもたちが歓声を上げていて、犠牲者のことなど想像さえしてないように見えました。

 その後、雨の日も風の日も反核を訴え、ホワイトハウス前で座り込んでいた女性に会いました。また案内された教会では各宗派の人々が長い列を作り、私たち被爆者一人一人の手を握り日本語で「ごめんなさい」と涙を流すのです。泣き崩れる神父もいました。米国には原爆を正当化する人がいる一方、心から謝ろうとする人、反核に身をていする人、いろいろな人がいると知りました。

 ニューヨークにも行き、01年9月11日に米中枢同時テロがあった現場も訪ねました。隣接するプレハブの「遺族の部屋」に招かれ、愛する人を奪われた人たちの悲しみの深さに言葉を失いました。当時のブッシュ大統領がテロの犠牲者をイラク戦争に利用するのは「許せない」と叫んだ遺族の怒りに震える声は、決して忘れられません。たくさんの出会いと発見に恵まれた旅となりました。

(2023年5月13日朝刊掲載)

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