[広島サミット5・19~21] 韓国大統領 平和公園訪問へ 核兵器廃絶 誓う日に
23年5月14日
在日・在韓被爆者 「犠牲者の痛み 癒やされる」
広島市である先進7カ国首脳会議(G7サミット)の拡大会合に20日から参加するため、韓国の尹錫悦(ユンソンニョル)大統領が現職として初めて被爆地を訪れる。在日、在韓の被爆者たちは歓迎するとともに、核兵器廃絶への誓いを新たにしてもらおうと、歴史的なその日を待つ。(小林可奈)
「大統領が広島に来られるなんて」。在日韓国人の朴南珠(パク・ナムジュ)さん(90)=西区=は喜びの声を上げる。12歳の時、爆心地から2キロの福島町(現西区)で被爆。皮膚を垂らした人々、空から降り注いだ黒い雨…。きのこ雲の下での記憶を今も脳裏に刻む。「なんと残酷で非情か。核兵器は絶対に使ってはいけない」
尹大統領は広島滞在中、岸田文雄首相と共に平和記念公園(中区)内の「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」を訪れる。慰霊碑は在日韓国人たちの尽力で1970年に本川橋西詰め(同)に建立。99年に対岸の公園内に移った。日本の首相では同年に小渕恵三首相(当時)が初めて訪れている。
「原爆で犠牲になった韓国人の痛みを癒やしてくれる。魂が限りなく喜ぶだろう」と受け止めるのは、在韓被爆者で韓国原爆被害者協会の鄭源述(チョン・ウォンスル)会長(79)=釜山市。1歳の時に広島原爆に遭った。
韓国人被爆者は、日本の植民地だった朝鮮半島から徴用・徴兵、生活困窮などで海を渡り、広島や長崎で被爆。朝鮮半島出身者の被害の実態は明らかになっておらず、広島原爆の死者は「5千~8千人」「3万人」との推計がある。日本の敗戦後、祖国に帰った人もいれば、とどまった人もいる。
韓国人被爆者は核兵器の非人道性を訴えてきた一方、韓国政府は核・ミサイル開発を進める北朝鮮をにらみ、米国の核兵器に頼る政策を維持している。鄭会長は核軍拡に異を唱え「二度と『核』による戦争があってはならない」と警鐘を鳴らす。
在日韓国人被爆者 「二重の差別 知って」
呉在住の金花子さん
「原爆は、私の体以上に心を苦しめた」。呉市の金花子(キム・ファジャ)さん(82)は、被爆者、在日韓国人として、二重の差別に遭ってきた。現職の韓国大統領として初めて尹錫悦大統領が被爆地広島を訪れる機会に、家族にも長く語ってこなかったという胸のうちを涙ながらに明かした。
父が少年期に海を渡ってきたという金さん。2歳の頃に大阪から転居し、1945年8月6日の朝は、爆心地から2キロの広島市大須賀町の自宅にいた。「ピカッと光ったと思ったら真っ暗になった」。当時は4歳だが、あの日の記憶が強く残っているという。家族は5人とも無事だった。
ただ、被爆後、金さんは頭痛や倦怠(けんたい)感に襲われた。病弱で、小学校入学は1年遅れ。身体検査で胸に影が見つかり、運動をできない時もあった。そして、在日韓国人被爆者への偏見と差別に傷ついた。「人種が違う者は出て行け」。小学生の頃、級友から浴びた心ない言葉は今も忘れられない。中学生の時には「あっち行け。うつる」…。
結婚後、家族にも体験を詳しく語ってこなかった。徐々に伝え始めたのは数年前で、ひ孫が被爆10年後に白血病で亡くなった佐々木禎子さんの母校の幟町小(中区)に入学したのがきっかけだったという。
初めて被爆地の土を踏む尹大統領には、在日韓国人被爆者の苦難の日々に思いをはせてほしいと望む。「韓国と日本の間で生きてきた私たちは原爆の惨禍に遭い、差別も受けた。その苦しみを知り、韓国の若者たちに伝えてほしい」(小林可奈)
(2023年5月14日朝刊掲載)