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連載・特集

緑地帯 山下一史 広島に生まれた指揮者⑦

 父の愛唱歌であった「夫婦春秋」の歌詞の「俺が二十(はたち)でお前が十九」を地で行くような結婚をした二人だったが、結婚から15年を経た昭和36(1961)年、母は懐妊した。母の体調は依然として不安定で、2カ月に入ってから出血を起こし入院したところ、医師から出産は難しいと告げられる。しかし母は、夫に父になってほしいという強い思いから文字通り必死に6か月間耐えてくれた。そうしてこの世に生を受けたのがこの僕である。1400グラム足らずの未熟児だった。

 大げさではなく、命を懸けて僕を産む決心をしてくれた母には感謝しかない。あの病弱な母のどこからその力が出たのか。「母は強し」というが、われわれは産んでくれた母という存在にもっと感謝しなければならないと思う。

 2018年4月、両親の死後しばらく空き家になっていた戸坂の実家の整理を妻と二人で行った。僕がそこで暮らしたのは8年に過ぎなかったが、父と母の40年を僕はそこに確かに見た思いがする。

 整理する最中に何度も手が止まった。僕が上京してから両親に送った手紙はすべて取ってあった。留学中の手紙や写真、折に触れて送っていたコンサートのプログラム、ニューヨークやベルリンまで僕のコンサートを聴きに来てくれた時の航空券の半券まで。僕のことが掲載された雑誌や新聞はきれいにスクラップされていた。

 僕は自分のことで精いっぱいで、両親の無上の愛に十分に報いることができなかった。しかし最後まで両親が僕を愛し続けてくれたことを、主を失ったあの家は教えてくれた。(指揮者=東京都)

(2023年5月16日朝刊掲載)

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