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連載・特集

『生きて』 通訳・被爆者 小倉桂子さん(1937年~) <12> 被爆体験証言

封印解き「痛み」を語る

 広島を訪れる外国人の通訳ガイドの活動を続けながら、自分の被爆体験は1980年代に海外で短く話した程度で、長く封印してきました。大勢の前で話すようになったのは、被爆から60年ほどたった頃です。

 海外の人に被爆者を紹介し通訳をしていると、本当に凄惨(せいさん)な体験を聞きます。大けがを負った人、心身の病気に苦しむ人、親を奪われてその亡きがらを焼いた人、孤児や孤老になった人もいます。私は隣に座る被爆者の体の震えを感じ取りながら涙をこらえて通訳してきました。被爆当時まだ幼く、大したけがもしていない私が話すより、もっと悲惨な体験をした人を探しだして通訳し伝えるのが私の仕事と考えていました。

 海外メディアの人の中にはケロイドなど目に見える傷ばかり見たがる人もいましたが、私は心にも大きな傷を負わせる原爆の恐怖を伝えようと心を砕いてきました。半面、自分の体験は隠したままほかの人につらい記憶を語らせる私は、なんて罪深いんだろうとも思っていました。

 あるとき通訳をした米国の高校生から「誰かの通訳ではなく、あなたが自分の目で見たことを話して」と言われました。英語で直接語りかけると、真剣な表情で耳を傾けてくれました。意義を感じました。自分の言葉で、核保有国の未来を担う子どもたちにメッセージを伝えようと証言活動に一歩を踏み出しました。

  ≪2011年、広島平和文化センターから英語による被爆体験証言者として委嘱を受けた≫
 8歳の時に見た被爆の惨状を語ると、「そんな小さな子が…」と、思いを寄せて聞いてくれる人がいます。当時子どもだったからこそ伝えられる「痛み」があるのかもしれないと思うようになりました。

 20年以降は、コロナ禍で証言活動も様変わりしました。海外との行き来が難しくなった代わりにオンラインで証言する機会も増えました。対面で伝えるのが一番ですが、より多くの世界の人々に思いが届けられると前向きに捉え、活用しています。

 時間は待ってくれません。私がこれまでに通訳してきた被爆者も近年相次いで世を去りました。私もいつまでできるか分からない。だからしっかり話さなくてはと思うのです。

(2023年5月16日朝刊掲載)

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