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連載・特集

[私の道しるべ ヒロシマの先人たち] 広島YMCA名誉理事長 黒瀬真一郎さん(82)

「折鶴の会」世話人 河本一郎さん

ドーム保存運動 陰で支え

 長く広島の学校現場で平和教育に力を注いできた。「振り返ればすべて出会いに導かれてきた」。数ある出会いの中でとりわけ大きな影響を受けたのが、「広島折鶴の会」世話人だった河本一郎さん(1929~2001年)である。

 英語教師として広島女学院中高(広島市中区)に赴任した1969年、小柄で痩せた校務員と出会う。それが河本さんだった。黙々と働き、勤務を終えると自ら集めたタオルやせっけんを詰めた段ボールを自転車にくくりつけ入院中の在韓被爆者を見舞う。平和記念公園(同)に移動して原爆の子の像の周囲を清掃。それを毎日続けていた。

 原爆の子の像建立(58年)運動などを支えた河本さんのことは、知り合う前から聞き知っていたものの「表面や口先だけでない、この人は本物」と思った。

 河本さんはペルーに渡った両親の元、首都リマで生まれた。2歳で父親と死別し母子で日本に戻るも、その母も病死。43年に現・坂町の父の実家に身を寄せた。45年8月6日は坂の発電所にいて直爆は免れたが、夕方には救援のため入市。廃虚と化した広島で連日負傷者の救援に当たった。そんな体験が戦後の河本さんの生き方を決定づけたようだ。

 「原爆1号」と呼ばれた吉川清氏(1986年死去)らと初期の被爆者組織を結成。平和のための奉仕活動に専念しようと発電所を辞め、日雇い労務をしながら被爆者支援に尽くす。2歳で被爆した佐々木禎子さんが55年に白血病で亡くなった後、級友らに像建立を提案し子どもたちによる募金活動を支えた。建立後は「折鶴の会」世話人として児童生徒を前面に出した独自の運動にのめり込む。

 それは67年に校務員として女学院に勤め出してからも変わらなかった。海外から広島を訪れる人があれば駅に迎え、子どもたちと一緒に案内。その様子をカメラに収めては自費でプリントし、保護者に配った。

 「常に黒子に徹し、生徒たちにも河本のおじちゃんと慕われていた」。だが組織にとらわれない運動スタイルを不審がる人もいた。「子どもを利用している」と心ない言葉をかけられもした。「それでも黙って信念を貫く頑固さも河本さんにはあった」

 妻の禎子(ていこ)さん(13年に死去)と、河本さん宛ての海外からの手紙を翻訳したり弁当を差し入れたりして応援した。きれいに洗って返してくれる弁当箱には、チラシの裏に書いたお礼の手紙や折り鶴が添えられていた。「教師は口であれこれ説きますが、河本さんは黙って行動で思いやりを示す人。清貧という言葉がぴったりで、私にはできないことをしている人だと尊敬してきました」

 河本さんが世を去って22年。「心に刻まなくては」と考える、もう一つの大きな足跡がある。原爆ドーム保存に向けた運動だ。19日からの先進7カ国首脳会議(G7サミット)を前に今多くの観光客が訪れるドームはかつて、解体の危機にさらされていた。60年8月「折鶴の会」は保存を訴える署名集めを始める。被爆15年後に白血病で亡くなった高校生楮山(かじやま)ヒロ子さんが日記に残した、保存を望む言葉を河本さんが受け止め、立ち上がった。運動の輪は広がり6年後、保存が決まる。

 「私たちは今、国が決めたから市が決めたからと何でも諦めていないでしょうか。一人一人が判断し言うべきことを言う。河本さんは市民の力も教えてくれました」。世界に不穏さが増す今だからこそ「ぶれずに意志を貫いた河本さんを語り継ぎたい」と思う。それもまた大事な平和活動だと信じている。(森田裕美)

くろせ・しんいちろう
 三次市生まれ。北九州市立大卒。英語教諭として山陽高、広島女学院中高に勤務し、1986年同校教頭、94年校長に。2007~14年学校法人広島女学院院長、10~20年広島YMCAで理事長を歴任。現在、奥田元宋・小由女美術館理事長、NPO法人ピース・カルチャー・ビレッジ(PCV)理事。広島市東区と三次市の自宅を行き来しながら仕事をしている。

広島折鶴の会
 「原爆の子の像」建立運動に携わった子どもたちを中心に、1958年結成された。児童生徒が主役の会として、河本一郎さんは世話人を務め、市井の運動を貫いた。原爆ドーム保存を求める署名活動をしたほか、原爆病院などに被爆者を慰問したり、ヒロシマに関心を持つ海外の人たちとの交流を続けたりした。

(2023年5月16日朝刊掲載)

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